雪降る街角 3



数日後、またがらんとしたフロアに、彼が足早やに駆け込んできた。
よくあの長い足が絡まないものだと、変なことに感心しながら、つい、彼の姿に見とれる私。
彼はまっすぐに自分のデスクに向かうと、手早く数枚のメモを取り、
十数枚のポストイットに書かれた伝言に素早く目を通し、パソコンのメールをチェックして何通かの返信をし、
引き出しを数回開いて何かを片付け、そして、やっと、ほっと息をついて腰を上げた。
ついでに視線を上げて、まだ私がその場にいることに初めて気づいたように、大げさ驚いて見せた。

「あれ、ジェヨンssi。まだいたんだ」 と、言いながら、フロアを見回す。

残念ながら、この広いフロアには、もう数人の社員しか残っていない。
もちろん、私はまた残業をしていた。
何で私ばかり・・・とはもう言わない。
どうせ早く帰ってもすることはない。
だから、今、私は積極的にわずらわしい仕事を請けている。

「何してンの?」

馬鹿か、こいつは(と、つぶやくのはもう何回目だ?)。
私がわざわざ会社でチャットでもしていると思ってんのか?

「仕事」

「・・・ジェヨンssiって、仕事好きだね」

「大好きよ。
少なくとも、仕事は男みたいに裏切らない」

「ふう〜ん。でも・・・」

「何よ」

「仕事は、あっためちゃくれないだろ」

こいつ・・・。
私は、きっと彼をにらんだんだと思う。
でも、彼は動じない。
相変わらずからかうような目で私を見下ろしていた。

「ねぇ、明日」

「何よ」

「イヴだよ。それも土曜日だ」

「だから何なのよ」

「責任とってもらわなくちゃ」

「はい?」

彼はひどく大真面目な表情になった。

「あなたが、そそのかしたんだよ。
責任とってもらわなくちゃ」

「そそのかしたって・・・、何よ?」

「明日・・・、ジョジョに会うんだ。
プレゼント渡すよって、約束した。
あなたも一緒に行ってくれなくちゃ」

「はい?」

間抜けな返事も2度重なると、いささかみっともない。
しかし、彼のまったく何の根拠もない論理は、私を戸惑わせる。

「明日、3時に、この間のパティスリーで。
忘れるなよ」

忘れるなよって、おいおい。
多分、私は、唖然と彼の顔を見上げていたのだろう。
彼は、またちらりと笑うと、さっさと背中を向ける。

「ごめん、地下鉄まででも送って行くべきだけれど、今日はまた実家に呼ばれているから、急ぐ!」

そんなことを背中で言うな!
さっさと出て行った彼の背中を見送り、私はしばし、ぼんやりとしていたのだと思う。

明日、3時。
クリスマス・イヴに・・・?
私は、しかし、はっと目が覚めた。
あいつ、ばかか(ア〜ン、私こそなんとかの一つ覚え)。
明日はクリスマス・イヴ。
パティスリーはかき入れ時じゃないか。
簡単に待ち合わせなんて、アンタ・・・。




案の定、「ら・びぃあん」という名前の(と、今回、私は初めて知った)
その小さな店は、外にまで客があふれていた。
もっとも、ほとんどの客は、店先のショーケースを覗き込み、次々とバラの花びらのようなスイーツを買い求めては、あるいは予約していたクリスマスケーキを手にしては、足早やに去っていった。
私は、そんな浮かれる人たちに圧倒されながら、やっとの思いでカフェスペースに滑り込んだ。
こちらもショーケースの前と似たり寄ったりだった。
この間二人で座ったテーブルの上には「予約席」という控えめ(大きさが)な、しかし、どこか誇らしげなクリスマスヴァージョン(つまり、赤と緑のカリギュラフィに金の細いラインが絡み付いている)のカードが麗々しくおかれていた。
それ以外の席はすべて幸せそうに顔を寄せ合うカップルで埋まっている。
ほら、みてみろ。
満席じゃないか。
こんなところで待ち合わせるなんて、本当にもう!
それにまだあいつの姿は見えない。
外で待つしかないけれど、このクリスマス・イヴを祝おうとでもいうのか、空は雪を抱いているように重い灰色だ。
寒い・・・!
途方にくれて、私は、しかし、しぶしぶと引き返そうとした。
その前に、真っ白服を着て、真っ白な帽子をかぶって、鼻の下にひげまで生やした、まるで雪だるまのような男が突っ立って私を見下ろしていた。

「キム・ジェヨンssiですか?」

雪だるまにそう問いかけられて、びっくりした私は思わずうなずいてしまった。
私の様子に、彼はにっこりとひげを上げると、「では、こちらへ」と、慇懃なしぐさで私をエスコートする。
彼が導いてくれたのは、予約席のカードが乗っていた一番奥のテーブルだった。
「どうぞ」と、言われて、私は素直に椅子に腰を下ろした。
それから、もう一度、改めてその雪だるまを見上げる。
ひげにだまされたが、思っていたよりも若そうで、やや小さめな瞳が相変わらず柔らかい微笑を浮かべながら、私を見下ろしている。

「今、ジョンファから連絡が入りました。
あなたの携帯、電源が入ってないようですよ。
彼がぼやいていました。
ちょっと遅れるそうです。
ミルフイユとダージリンのストレートでよろしいですか?
ほかのケーキもおいしいのですが、あいつは、どうも、目の前で女性がミルフイユと格闘するのを見るが好きなようで・・・」

あきれたような、でも、どこか面白がっている雪だるまがそういう。
あいつ・・・。
どこかひねくれている。
しかし、この雪だるまと彼は友人なのか?
そうそう、あいつのおもちゃになってやれるか。
私は、にっこりと微笑むと、「イチゴがいっぱい載っているケーキ、お願いします」

「ルビーレイクですね。すぐお持ちします」

また慇懃に頭を下げて、雪だるまは立ち去ろうとした。
それから、ふと足を止めて

「実は、あなたがいらっしゃるのを待っていたんです。
あいつ、ずっと以前から、クリスマス・イヴには、大好きな女性を連れて行くからって、言っていたんですよ。
それが、あなただったってわけだ。
歓迎します。
あいつが、やっと本気になった女性だから」

えっと、私は彼の顔を見直してしまった。
違う!
彼は大きな誤解をしている。
しかし、それを訂正しようと口を開く前に、「チーフ! デコレーション、お願いします!!」という悲鳴に似た声が、ショーケースの奥から聞こえてきた。

「いけね!」
と、雪だるま(つまり、彼がこの店のパティシエってことね)は、舌をぺロッと出すと、私に小さくウィンクして見せて足早やにショーケースの向こうに消えていった。

やれやれ・・・。
似たもの同士。
ジョンファとその友人は、どこかとぼけたところがよく似ている。

しかし・・・、と私は思う。
ジョンファは、このイヴに、彼女にプロポーズするつもりだったに違いない。
そして、ここに連れてきて雪だるまに紹介して、彼の作った飛び切りおいしいケーキをご馳走しようと思っていたのだろう。

哀しいイヴ。
結局、私なんかと一緒にすごす羽目になって・・・。
私?
私は・・・。

そこまで思ったとき、そのジョンファが歩道を急ぎ足で歩いて来るのがガラス越しに見えた。
今日はファーに縁取られたパーカー付きの黒っぽいハーフコートを着ている。
グレイのパンツに包まれた長い脚が、ゆったりと動いているように見えながら、
歩幅が広いのでスピードは速い。
周りの人たちの浮かれたようなリズムに乗り切れず、心をどこかに浮遊させるような表情をして、私の待つ店へと歩いてくる。
私がそんな自分を見つめているなんて、きっと一片の雪ほどにも思わずに・・・。
手には、小さな箱を持っていた。
仰々しい花火のようなリボンがかけられているのを見て、それがジョジョへのプレゼントなんだと私は思う。
あの大きさなら、なんだろう?
8歳の男の子が喜ぶものって?
ああ・・・私には分からない。
友人やいとこたちはすでに母親となり、ちょうどそのくらいの子供たちを育てているが、
彼女たちの家に招かれるたびに、私はいつもお土産に迷う。
そして、結局、ケーキだの花だのと、無難なものでごまかしてしまうのだから。

「ナに食べたの?
ミルフイユって、リクエストしていたのに、違うもの食べたな?」

ぼんやりと考えていた私は、ふいに頭の上から降ってきた声にびっくりして顔を上げた。

「あのね、遅れてきてその言い草は何よ。
このイチゴのケーキもおいしかったわよ。
次からこれにするわ」

「次?」

男らしい右眉を上げて、ジョンファは言葉を返した。
おっと・・・。
ついつい口が滑ってしまった。
・・・だって・・・・本音だもん、認めるわよ・・・。
でも、

「言葉のあやよ、言葉のあや。
何で遅れたの?
やり手の営業マンらしくないわよ、15分も遅れるなんて」

「だって、ショップの店員がね、
僕に見とれてなかなか上手にラッピングできないんだ。
社員教育がなってないな、あの店」
 
腰を下ろしながら、ジョンファはぼやく。
しかし、私はその店員(女性だ、絶対)に同情した。
その気持ち、よく分かる。
ジョンファがテーブルの上においたそれに目を留めて、私は尋ねた。

「何、これ?」

「ん・・・、ずっと頼まれていたんだ。
クリスマスに発売のゲームソフト。
3ヶ月も前から予約してたから、忘れてしまうところだった」

 さりげなく言って、彼はかわいいウェイトレスに「モカ二つ」とオーダーする。
うそつき。
あなたが、あのかわいい甥っ子との約束を忘れるはずはない。
忘れたかったのなら分かる。
そうね、忘れたかったに違いない。

今日はクリスマス・イヴ。
あなたの愛したあの母子は、きっと婚約者と一緒に過ごす予定をたてているだろう。
・・・そのどこに、プレゼントを渡すために割り込むというの?
彼は黙ってコーヒーを飲み終わると、「行こうか」と、立ち上がる。
私もつられて立ち上がる。
彼の後を2・3歩あるいたあと、何気なく振り返ろうとして、いきなりぐっと肩を抱かれ、身動きが取れなくなった。
私の顔のまん前にジョンファのシャツ(つまり胸)があった。
私は、声を上げることを忘れる。

何?
何が起こったの?

狼狽する私の耳元に、彼の声が降ってくる。

「振り返らなくていい。
僕は何も忘れたりしない」

「ジョンファ・・・」

「僕は何も忘れない。
あなたが忘れ物をしそうだというのなら、僕が注意する。
あなたは、振り返らなくていい」

返事ができずに彼の腕の中で硬直している私の耳に、「コホン」というわざとらしい、しかし、十分暖かさに満ちた咳払いが聞こえた。

「僕の店の中だぞ。
でも、今日はクリスマスだから、大目に見てやる」

雪だるまだった。
手に大きなケーキの箱を抱え、私たちの後ろに立っていた。
それどころじゃない、店中のカップルが私たちを凝視している。
うわ・・・。
私は、自分の頬が熱くなっていくのを止められなかった。
なんということを・・・。
しかし、女の子たちの視線が、嫉妬めいているのは許してやる。
だって・・・彼女たちの目の前に座っている男の子の誰よりも、私の、私の肩を抱いた男はきれいだもの。

「よせよ、ラブシーンじゃないんだから」

私の肩からするりと腕を離し、彼はテレもせずに言い放つ。
そして、雪だるまの手から、その箱を受け取った。

「ジョンファ。ちゃんと紹介しろよ」

そんな雪だるまの声に、ジョンファは笑いながらフンと肩をそびやかした。

「今度ゆっくり。
今日は急いでいるから。
クリスマスくらい、お前も忙しくしてろ」

そして、さっさと私の背を押し、その店をあとにした。
彼はすぐに渋滞の中からタクシーの空車を見つけ出し(神業に近い)、私を先に押し込むと自分も乗り込んだ。
そして、都心をやや外れた地名を運転者に告げると、あとは黙り込んで窓の外を眺めている。
私は・・・、私はまだ動悸が鳴り止まないままだった。
さきほど、いきなり抱かれた肩が、彼の大きな手が包み込んだ肩がまだ熱い。
車窓を通り過ぎていく街は、クリスマスの興奮に熱く包まれているけれど、でも、きっと、私の肩のほうがずっと熱い。

熱い・・・。


「夕食を一緒にって言われているんだ」

「え?」

唐突なジョンファの声に、私は振り返った。
しかし、彼は窓の外を見つめたまま。

「婚約者がね、僕たちも一緒にささやかなクリスマスパーティしようって言うんだって。
もう、新居に引っ越しちゃってるし。
年明けに、結婚するそうだ。
昨日、実家で、両親がそう言っていた。
ジョジョのことかわいがっていたから、二人がいなくなって両親もさびしいら しい。
兄貴たちが結婚するときに、さっさと僕を追い出したくせに、今度は僕に実家に帰ってこないかってさ。
親なんて、勝手なもんだ」

彼の言葉は苦々しいが、それは多分、両親の勝手な言い草に対してではない。
婚約者との夕食。
嫌ならば断ればいいものを、断れなかったのは、自分の気持ちに決着をつけるためか。
馬鹿な男の子だこと・・・。
その馬鹿な男の子は、それきりまた黙ってしまった。




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