雪降る街角 2



その週末、私は2ヶ月ぶりに彼とまた歩いていた。
 あの日、赤や黄色に彩られていた街は、すでに冬枯れ色に染まっている。
今年は暖冬だとかで、まだ初雪は降っていない。
その侘しい色を覆い隠すように赤や緑、金や銀の鮮やかなリボンやモールが街を彩り、まもなく訪れるクリスマスを私に思い出させてくれた。
クリスマス。

今では苦い記憶になってしまったけれど。
キャメル色のハーフコートを粋に着こなして、ジョンファは私の傍らをのんびりと歩いている。
つまり、彼は私よりも20センチ近く背が高い分、歩幅が広いので、ゆっくり歩いてくれないと私が小走りになってしまうのだ。
だから、彼は多分、内心もどかしい思いをしながら、のんびりゆったりと歩いている。
私は何も言わなかったのに、彼はそうと察してくれたようだ。
さすが、気配り上手のやり手営業マンだ。
結局、私が要求し、彼が奢ってくれたのは
某韓流スターが経営陣の一人であるという高級レストランのヘルシーなランチだった。
その店の名前を言ったとき、彼はちらりと私の体全体をセクハラ視線で眺め、ひとことのたもうた。

「ああ・・・、あなた、そろそろ中年ぶとりの心配しなくちゃいけないのか」

こいつ、マジに首絞める!
ま、食事はおいしかったし、許してやろう。
その上、「中年ぶとり云々」と皮肉ったくせに、食事を終えると、「もう一軒、行こうか、ケーキもおごる」と、彼は言い出した。
断る理由もない。
私は彼のあとについて、席を立った。
が、つい癖で、後ろを振り返る。
空っぽになった皿とサラダボウルなどが載ったテーブルの上。
(ジョンファの食べ方はとてもきれいだったその点だけは花丸をつけてあげよう!)
ウン、大丈夫、何も忘れ物はない。
満足して歩き出そうと前を向くと、ちょっと小首をかしげて、どこか、ほんの少し探るような視線にぶつかる。
もちろん、ジョンファの視線だ。
私は気にせずにその前を通り過ぎた。
彼も何も言わず私の後をついてくる。
もちろん、支払いは彼だし。
言葉通り、彼はデザートも奢ってくれた。
ご馳走してくれた・・・というべきか。
その店名を私は知らなかったけれど、メインストリートから一本入った静かな通りに、控えめな赤いファサードだけがパティシエのいるカフェだと知らしめてくれる小さな店。
彼は窓際の一番奥のテーブルに着くと、私の望みなど無視して、勝手に「ミルフイユとストレートのダージリンとモカ」とオーダーしてしまった。
おいおい、男の目の前でミルフイユなんぞ食べたくないぞ。
あれってすごく食べにくいんだから・・・、と心の中で思ったが、私は黙っていることにした。
ジョンファは私の気持ちに気がついているんだかいないんだか、飄々とした態度で道行く人を眺めている。
午後の日差しが、彼の横顔に柔らかな光を注いでいる。
小さな店だが、ほかにも数組のカップルが、それぞれにおいしそうなスイーツを目の前において楽しく語らっている。
しかし、冬の穏やかな光はジョンファだけを選んで、その暖かな手を差し伸べている・・・・と、錯覚してしまうほど彼の横顔は美しかった。
やや目じりの下がった大きな目。
小さめの耳たぶから頤までの完璧なライン。
高い鼻梁。
ふっくらと大きめな口。
男らしくて、でもどこか甘さが漂うその横顔・・・。
私はぽかん・・・と口をあけていたのかもしれない。
ふいに戻された視線にどぎまぎして視線をそらすと、その視界の隅で、また彼が小馬鹿にしたような微笑を浮かべていた。
こいつ、本当に!
どうせ、この男の前だ。
ミルフイユを食べて、私がどんな粗相をしようと、こいつは気にも留めないだろう。
もちろん、あざ笑ったら、あんたの正体、会社でばらしてやる!
しかし、私は、目の前に運ばれてきたケーキを一口食べて言葉を失った。
飛び切りおいしいミルフイユだった。
触れればほろほろとこぼたれていきそうなほど繊細な薄いフイユタージュが何層にも折り重ねられ、
その間に甘さを抑えたクリームがそっと忍ばせてある。
フォークで刺すと、もったいないほどにはらはらとフイユタージュの破片が真っ白いお皿の上に落ちてしまう。

「いいよ、手で食べて。
ガブって噛み付いちゃっても」

自分はコーヒーしか頼んでいないので、余裕を持って私の観察ができるとでも言いたげに、
楽しげな言葉で私を誘惑してくれる。
目じりが下がり、大きめの口元の両端がきゅっと上がって、マジに楽しそうに私の手元を見ているのが気に障るが、しかし、それさえ気にならないほどおいしい!

「ミルフイユってね、千枚の葉っぱって意味なんだって。
ほら・・・、この間、あなたと歩いたでしょう。
僕は望んじゃいなかったのに、あなたが無理やりついてきた日。
あの日は・・・、僕たちの上に何枚の葉っぱが散ったと思う?」

さぁね。
そんなこと答えているヒマなんかあるもんですか。
安いミルフイユなら、その葉っぱたちが口の中にぺたりぺたりとくっついてしまうが、このミルフイユは口の中でとろけていく。
私は彼の言葉に返事もしないで、お行儀悪いと思いつつ(こいつの前ならそんなことどうでもいいや!)、
お皿の上に散っていた葉っぱの欠片までもきれいにフォークですくい、食べてしまった。

「ねぇ、どう思う?」

「何が?」

「だから、僕たちの上に降っていた色鮮やかな葉っぱ」

「あなたの肩に留まってくれたのはたった1枚。
翌朝、私があなたのデスクの上に置いた1枚だけよ。
後は、思い出と一緒に枯れ果てて、私たちの足元から消えて行ったわ」

私のきっぱりとした言葉に、彼は一瞬、とてもとても魅力的な目を細めたが、そして、にっこりと微笑んだ。

おお・・・。
今日はワインカラーのタートルネックのセーターを着ているが、
その色彩に彼の微笑みはくっきりと映える。
はっきり言うぞ。
磨きたてられたガラスから射し込んでくる暖かな光の中で、浮き彫りにされたようなその微笑。
・・・男のクセに、きれいすぎる・・・。

こいつの気持ちに気がつかず、ほかの男を選んだ女性が存在するということ自体、世の中不条理だと思う私。

本当に、もう。
もったいない。
本当に、なんてもったいない!
私なら・・・。

そこまで考えて、私は、はっと姿勢を直した。
私なら・・・私なら?

私は前に座って、私の顔を満足げに見ている男のカオを凝視した。
私だって、前の男と別れてまだ3ヶ月しかたっていない。
それなのに、それなのに?
こんな年下の、横柄な、傍若無人な、わがままな、子供な、甘えんぼな・・・。
仕事がバリバリできるのは認める。
彼が営業1課に異動してきてから3年間、彼の仕事振りを目の当たりにしてきたのだから。
でも、彼は私に一度も仕事を依頼しなかったし、だから、私もこのきれいな顔に背を向けていた。

・・・ああ・・・、そうか。
私は悟る。

私は急に笑い出したくなった。
ううん、笑い出した。
いきなり笑い出した私の顔を見て、さすがのジョンファもきょとんとしている。
丸く目を見開いて、なんてかわいらしいんだろう。
そうだ、私は認める。
私は、わざと彼を見てこなかったんだ。
誰もが私に、営業一課のお局様といわれる私に、気軽に仕事を言いつける。

「ジェヨンssi、これお願い」「あなたみたいなベテランじゃないと、できないんだ、頼むよ」「先輩、私じゃわかんないんです」
etc.etc.

けれど、ジョンファだけは、彼だけは決してそんなおもねるような言葉はかけてこなかった。
私は意地になっていたんだ。
お局様といわれる自分がかわいそうで、だから余計に、どんなばかばかしいほどの依頼でも、絶対に嫌だと拒否しないで引き受けてきたんだ。
会社で、私に背を向けて座っている男の仕事だってそうだ。
自分がほかの女の子とデートする時間を捻出するために、私に残業するほどの仕事を依頼してくれた。
そんな事情も知らず、私だけに面倒な仕事を押し付けてくるのは彼なりの愛情表現なんだと、勝手に解釈していたのは私のほうだ。
挙句に、私が残業している間にデートをしていた女の子と結婚してしまったじゃないか。
今も彼は私から見える位置に座っている。
そして、相変わらず、新婚の妻が待つ家に早く帰りたいがために、(私以外の)誰かに書類を作らせている男。
その男の背中を、いとしげに、そして、今となっては恨めしげに(多分ね)、物欲しげに(認めたくはないが)、
見ている私を見ていたのがジョンファ。
私が、ひたすら自分を必死に保っているのを黙って見ていた彼。
私に何も言いつけてこない彼を、私はあえて見ない振りしていたんだ。
お局様と呼ばれる私を、そしてその挙句、二股かけられて捨てられた私を哀れむことさえしてくれなかった彼を。
だから、気がつかなかった。
ううん、気がつかない振りをしていた、彼の美しさと・・・その・・・。

「何か、僕の顔についてる?」

多分、私はとてもとても険しい顔をしていたのだと思う。
太目の、ただし、とても男らしい眉をしかめて、ちょっと不満げに彼はそう漏らした。

「鼻と目と口」

私の返事に、うんざりとしたような、いつもの表情を取り戻し、「行くよ。暗くなる前に帰ったほうがいいでしょう」 と、立ち上がった。
私も逆らわない。

しかし、やはり、私は数歩歩いたところで立ち止まって振り返った。
翳り始め、急に力を弱めた光に浮かび上がる空っぽのテーブル。
大丈夫、何も忘れていない。

「そのクセ、もう必要ないんじゃない?」

えっと顔を戻すと、ジョンファが私を呆れるような表情で眺めていた
(見ていたのではない。眺めていたのだ)。

「僕はね、携帯もタバコも・・・
もっとも、僕はタバコを喫わないけれど・・・、忘れたりしない」

「ジョンファ・・・ssi」

多分、私の声には、憎しみさえこもっていたかもしれない。
彼が私の声に、一瞬、苦々しげに眉をひそめたからだ。
しかし、彼はふいっと私に背を向けると、レジに向かって歩き出した。
彼が支払いを済ませている間に、私はさっさとその店の前を離れた。
私は歩く。
派手に飾り立てないと、誰かに怒られるとでも言いたげに、ばかばかしいほどにぎやかな金と銀と赤と緑のモールの中を。

「ねぇ、どこまで行くの。
寒いんだけれど・・・」

あっという間に追いついたジョンファが、私を見下ろしている。
誰も一緒に来いとは言っていない。
さっさとぬくぬくと暖かな部屋に戻ればいいじゃないか。

「ねぇ・・・」

「今日はご馳走様。とてもとてもおいしかったわ。
でも、もう日が暮れるでしょ。ありがとう、付き合ってくれて。
さっさと帰ったら?
あなたのマンション、この近くじゃないの」

「ああ・・・ほんとだ」

間抜けタ声で、彼が言う。
本当にそれを忘れていたのなら、お前は本当の間抜けだ!

「ん、寒いから寄っていかない?
コーヒーくらい淹れるよ」

「ありがとう、ごちそうさま、でも結構」

つっけんどんな私の言葉にも、彼はまったく頓着しない。

「何、怒ってるの」

「怒ってない!」

「・・・ああ、やっぱり図星だったんだ。
・・・あいつ、ずぼらというか、なんというか、
食べに行っても、飲みに行っても、必ず何か忘れるんだ。
携帯なんかしょっちゅうだったし、タバコや、いすの背にかけたスーツの上着や、
ひどいときは書類の封筒まで。
それが、あいつの、なんというか、かわいげなんだろうけれど・・・。
あなた、この間、無理やり僕にお昼をおごらせたときも、さっきのレストランでも、あの店でも、席を立ったあと、必ず振り返って確認していたでしょう。
だから・・・、思った。
あいつと一緒にいたときのクセが、まだあなたから抜けていないと」

「大きなお世話!」

「ウン、大きなお世話。
でも、この間、僕はあなたの大きな世話のおかげで・・・、助かったんだ、本当は。
誰かを呼び出して一緒に飲むには・・・、ちょっと滑稽すぎたし」

ジョンファの口調は淡々としている。
しかし、それが余計に私をいらだたせる。
ああ、ああ、本当に滑稽だったわよね。
大切に大切に守り続けていた愛を、そして、いずれは自分のものになると信じきっていた愛を、いきなり持っていかれちゃったんだから。
それは私だって同じ。

「ジェヨンssi」

「何よ!」

「うん、気をつけて帰って」

彼はあっさりと言う。

気がつけば、地下鉄の入り口に私たちは立っていた。

「気をつけて帰ってください」

もう一度、私の怒りを静めるように、彼は同じことを繰り返す。

コーヒーはどした、コーヒーは。
飲ませてくれるんじゃないのか?
けれど、彼は、ぽかんと彼の顔を見上げた私に、またにっこりと微笑みかけると、「じゃね」 と、軽く手を上げて、あっさりと、本当にあっさりと背を向けた。
あまりにあっけなくて、私は、彼の背中にすがるしかなかった。

「カン・ジョンファssi」

ん? と、彼が振り返る。

「あの・・・」

「何?」

「クリスマス」

「クリスマス?」

いぶかしげな表情。
たじろがないところが彼らしい。
私に誘われるなんて、微塵も思ってないことを知り、本音を言えば、そうよ、本音を言えば、私はとても傷ついた。

「プレゼントは用意したの?」

「プレゼント?」

今度は眉をしかめた。
正直なやつ。

「あなたの小さな恋人」

私の言葉に、彼は、とてもとても・・・、つらそうな表情を見せた。
本当に正直なやつだ。

「毎年、プレゼントしていたんじゃないの?」

彼は視線をそらす。
やっぱり。

「いきなりやめたら、彼も傷つくわ、きっと。
ちゃんと、プレゼントしたほうがいいんじゃないの?」

「・・・大きなお世話だ」

「うん。そうだね。
でも、営業第一課のお局様だもん、私。
大きなお世話は生き甲斐なのよ」

それだけ言うと、私は彼をその場に置き去りにして階段を駆け下りた。
(もっとも、彼はそこまでしか送るつもりはなかったと思うけれど)
大きなお世話はお互い様だ。
でも・・・私は今、彼に大きなお世話をしたい。

・・・それだけでいい。



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