待っていてくれたのは雪だるまだった。

時計はもう午後8時過ぎ。

見慣れた赤いファサードの小さなお店は、もう店頭の明かりは落としていた。

けれど、淡いベージュ色のロールスクリーンで覆われた店内は、ぼおっと朧な明かりに包まれている。

「入って」

ドアの前にぼんやり立っていた私は、ジョンファに促されてドアを見た。

「だって、『close』の札がかかっているわよ」

「ほかの人にはクローズ、でも、今夜はバレンタインだよ?」

彼はわけの分かんない理屈を口にすると、私の前でそのドアを開いた。


「いらっしゃいませ」

雪だるまが、いつものように穏やかな微笑を満面に浮かべて恭しく頭を下げた。

「どうぞこちらへ」

彼が案内してくれたのは、お店の一番奥。
照明を落とした店内。
テーブルの上で、ゆらゆらと心地よさそうに揺らめくキャンドルの明かり。
私たちがいつも座る窓際の席ではないけれど、『予約席 』というきらびやかなかわいいカードと季節を先取りした春の花々と、ワインクーラーにはワイン・・・?

「当店のバレンタイン・スペシャルディナーにようこそ」

雪だるまは慇懃な口調でそう告げると、私たちのコートを受け取り、私の椅子を引いてくれた。
そして、唖然と見上げた私ににっこりと微笑みかけ(彼がにっこりすると、笑顔の中に目や鼻や口があるように見える)
ジョンファと意味ありげな視線をかわし、さっさとショーケースの奥に消えてしまった。

「ジョンファssi?」

ご機嫌よく私のまん前に座っている彼に問いかけると、自慢げな視線が返ってきた。

「言わなかったっけ?
彼はフランスで料理修行したって」

「聞いたわよ、でも・・・」

ジョンファにはぐらかされている間に、雪だるまは私たちの前にオードブルのお皿を並べワインをグラスに注いでくれた。

「何しろ、僕一人しかいないから、すべてやらせていただきます。あしからず」

彼には珍しく軽快な口調でそれだけ言うと、また軽い足取りで厨房に消えていった。

「ジョンファ?」

「乾杯」

彼は私の問いをことごとくはぐらかし、勝手にグラスを上げて私にも同じようにすることを促している。
私も苦笑して仕方なくそれに従う。
軽くグラスを合わせると、とてもとても透明な音がして、私たちのディナーが始まった。
料理はコースというほど本格的なものではなく軽めだったけれど、でもとてもおいしかった。

「すみません、ここの厨房では、これが精一杯なもので」

雪だるまが申し訳なさそうに言う。
私は、大きく首を振った。

「ううん、とてもおいしい!
もったいないわ、ケーキだけしか作らないなんて。
でも、今日1日、すごく忙しかったんでしょう?
それなのに悪いわ、閉店後にこんな・・・」

「いいよ、こいつ、作っていれば幸せなんだから」

どうしても茶々をいれずにはいられないジョンファが横から口を出す。
この2人が大学のクラスメイトだということを、私はつい最近知った。
雪だるまのほうがずっと年上だと思っていたので少々驚いたがなるほど、よくよく見れば雪だるまの肌はまだ若々しい。
この2人は大学以来の親友らしく、2人で話し始めると次から次へと思い出話があふれ出し私なんかそっちのけで掛け合い漫才が始まる。
けれど、今日はシェフに徹するつもりなのか、食事の間、彼は厨房から出てこようとはしなかった。
ジョンファと私は、ゆらゆらと揺らめくキャンドルの明かりに包まれて、二人で他愛ない会話を交わす。
今夜、彼は、とてもご機嫌がいい。

「だからさ、最終的には、カリン・エンターティンメントのシン・ジェジンと一騎打ちになると予測してるんだ」

二人きりの時にはあまり仕事の話をしないのに、今夜、彼は、まもなくコンペが行われる企画について語っていた。
だから、その書類をいずれ頼む・・・と、暗に言っているつもりらしいけれど・・・。

「あいつとはね、今まで何度もコンペで争ってきたんだ。もう、天敵だな」

天敵って・・・
確か、シン・ジェジンはこいつよりも3歳か4歳年上だったはず。

「いつも冷静でさ、っていうより、あれはどっちかって言うと根暗だと思うんだけれどな。
すごく如才なくて明るそうに見えるけれど、よくよく観察していたら必要なことしかしゃべらないんだ」

はいはい、ジョンファ君。
君はどちらかといえばよくしゃべるよね。
・・・もっとも、会社では冷静で頭脳明晰な営業マン・・・だったっけ?
常に鋭い目をしてしっかりと前を見据えている。
その凛とした表情にうっとりとしている女性社員がどれだけいるか・・・。
君の二重人格には恐れ入るわ、マジに。

「あ〜、そういえば、シン・ジェジンって結婚するって噂だった。
なんか、6つも7つも年下の美人小説家と結婚するって言ってたな」

ん?
私はぴくりと反応する。

「羨ましい?」

さりげなく聞いた私。

「もちろん羨ましいよ、結婚するってンだもん」

ジョンファの答えもさりげなかった。
さすがね、ジョンファ君。
私は“若い”女性と結婚するのが羨ましいかと尋ねたのに、彼はすかさず、“結婚”するのが羨ましいと返してきた。
・・・私、本当に自虐的だ。

ジョンファみたいな男と一緒にいると、どうしても自虐的にならざるをえないのがつらい。
けれど、ジョンファは全く無邪気にしゃべり続ける。
隔週末ごとに出張に出かけている国内のリゾート地や実家の両親の話、亡くなった兄貴のことや、最近、ジョジョから貰ったカードのことや・・・。
私はそんな彼の話にあいづちをうちつつなぜ、彼がこんなディナーにいきなり誘ったのか、真意を図りかねていた。
でも、ま、いいや。
彼が楽しそうにしているんだもの。
この次、いつこんなチャンスがめぐってくるのか分からない。
今を目いっぱい楽しんでおかないと、私、後悔することになる。
だって・・・、しゃべり続ける彼は、本当にきれいで・・・。
そんな彼を独り占めしている私って・・・、何て幸せなんだろう・・・。

デザートは例によってミルフイユとコーヒー。
口の中でさわさわととろけてゆく葉っぱの破片を楽しみながら、私は満足げな微笑を浮かべていたのだろう。
ジョンファが、いたずらを見つけた男の子のような視線で私を見ているのに気がついた。

「何?」

「ううん、おいしそうに食べるなと思って」

「ジョンファ?」

今度は私のほうが意地悪な視線になる。
彼は敏感に私の視線に気がついたようだった。
ちょっと警戒した、けれど、ちょっと楽しげな表情を浮かべている。

「なんだよ」

「私・・・彼に聞いたわよ。
あなた、女の子がミルフイユを食べるのを見るのが好きなんですって?」

「うん」

「・・・あなたを好きな女の子が、あなたの目の前で、どうやって食べればいいのかしらって悩むのを見るのが好きなわけ?」

当然・・・という表情を彼が見せる。

「ジェヨンssiはミルフイユを大胆に食べるよね。
あなたでも、悩むの?」


「失礼ね、私だって悩むわよ。
難しいじゃない、すぐに崩れるし。
スポンジケーキならフォークで刺して食べられるけれど
薄いパイ皮はすぐに零れるし・・・。
フツーの女の子なら、好きな男の前でまさか噛み付くわけにはいかないし・・・って、悩むと思うわよ」

「ふう〜ん・・・。じゃぁ・・・」

「何よ」

彼は少し遠い目をする。
その後、ちょっと肩を落とした。

「僕のこと、好きじゃなかったのかな?」

「誰が? 」

「初恋の子」

初恋・・・だとぉ?
私は目をむいた・・・ンだと思う、多分。
そんな私を見て、ジョンファはちょっとだけ気を抜いた微笑を見せた。
テーブルの上でかすかに揺れるキャンドルの炎が、彼の顔の陰影をより深めている。
こいつ、本当にきれいな男だとつくづく思う。
今みたいに、ちょっとはにかんだような微笑を浮かべると、マジに背筋に戦慄が走りそうになる。
けれど、そんなこと、私はおくびにも出さない (多分、出ていない・・・はず)。


「あなたの初恋って・・・いつの話よ」

「ウ〜ン、本当は二度目の初恋・・・なんだけれど」

「んじゃ、一度目は?」

「幼稚園のとき、隣のお姉さん」

はいはい、聞いた私がバカだった。
かわいい甥っ子同様、あなたも幼いときから十分マダムキラー振りを発揮していたことでしょうね。

「それで、2度目の初恋とミルフイユはどう結びつくの?」

「それは、僕が説明したい!」

いつの間にか雪だるまが私たちのそばに立っていた。
手にはマイカップを持っている。
多分、私たちのデザートまで待っていてくれたに違いない。

「あ、邪魔するな!」

「いいじゃないかよ。
もう、明日の仕込みも終わったし、2人っきりのディナーも十分楽しんだだろ。
ねぇ、ジェヨンssi?」

私はにっこり笑った。
そりゃ、本音を言えば二人っきりのほうがいいけれど、でも、私はこの雪だるまも好きだった。
ジョンファと雪だるまの掛け合い漫才のような会話を聞いているのも好きだった。
雪だるまが話してくれるジョンファの学生時代の話も大好きだった。
会社では決して見せないジョンファのおとぼけぶりは、私もこの数ヶ月間、垣間見てはいるけれど親友だという雪だるまが語るジョンファはまた特別だった。
雪だるまは、わざわざ嫌な顔をしたジョンファの横にちょこんと座り込んだ。
その上、その手には、イチゴやブルーベリー、メロンがティアラのように飾られたおいしそうなケーキが載った新しいお皿まで持って。

「新作です。クージュ・ド・ブランシュ。
この春から出そうと思って。
特別製の真っ白なカスタードクリームとキャラメルクリームを重ねたミルフイユです。
もし、まだ食べられそうならどうぞ」

思わず、きゃぁっと口の中で叫び、私はありがたくそのお皿を受け取った。
その私を、またジョンファがおかしそうに見ている。
私が早速フォークとナイフを持つのを見て、ジョンファと雪だるまは、またお互いの悪事の暴露話を開始する。

「ジェヨンssi。
こいつはね、大学に入学してすぐの合コンでねあからさまにつまんないって顔して席を立っちゃったんです。
ま、僕もつまんなかったから、一緒にその店出ちゃったら後から女の子も3人ついてきたんです。
仕方ないから近くのカフェに入ってコーヒー頼んだら、女の子たちはケーキまで頼んじゃった。
その中の一人が・・・」

「ミルフイユの君だったわけね」

「ご明察」

ちらりとジョンファを見ると、知らん振りしてワインなんぞを傾けている。

「ふわんふわんの猫っ毛のキュートな女の子でね。
彼女、頼んだのはいいけれど、食べるのにやっぱり躊躇したみたいで。
一応ね、ナイフで切り分けたけれど、後は考え込んでいた。
で、どうするのかと思ってみていたら、かわいい指でそのミルフイユをつまんで、エイヤッて口に入れた。
そのとき、彼女、チラッとこいつを見たらしい。
その目の動きと思い切って開けた口が愛らしかったって、こいつ・・・」

そのときの光景を思い出したのか、雪だるまは、くくくっと笑い出した。
ジョンファは聞こえない振りして相変わらずそっぽを向いている。

「それが、二度目の初恋・・・ってわけ?」

やっぱり、こいつ、わからない。
その初恋を経てたどり着いたのが、あの楚々とした義姉なのか。
一体、「彼の好みのタイプ」はどこにあるのか・・・。

「で、どうなったの、その二度目の初恋は」

「だって、それ以来会ってないから」

「はい?」

ジョンファのそっけない言葉を雪だるまが補足してくれた。

「結局、彼女たちとはそれっきり会わなかったんです。
大学も違ったし。
でも、以来、こいつは気になる女の子には必ずミルフイユをご馳走するんです。
女の子たちはいい迷惑・・・。
でも、僕たちは、こいつがGFと一緒にカフェに入っていくのを見るたびに隠れて後をつけていったものです。
もし、こいつがミルフイユを頼んだら、今度の女の子とは本気だなって・・・」

本気・・・。
私は思わずフォークとナイフを置いた。
思っていた以上に大きい音がしてしまって私はうろたえたが、雪だるまは、そんな私を見て、にっこりと微笑んだ。
ジョンファは相変わらずそっぽを向いて韜晦中・・・。

ミルフイユ・・・。
私、彼にはミルフイユしか食べさせてもらってない・・・。
私は彼の横顔をみつめた。
ぼうっとともるキャンドルの明かりに照らされて、長いまつげが高い鼻梁に翳を落としている。
相変わらず何を考えているのか分からないその横顔。
でも・・・、でも・・・、・・・本気って・・・本気にしても・・・本気にしても・・・。
でも、私はフォークをもう一度手にすることはできなかった。

「ごめんなさい、やっぱり、おなかいっぱいみたい・・・」

ちらりとジョンファが私を見る。
けれど、すぐに視線はどこか宙を見上げる。
雪だるまは、ちょっと残念そうな顔をしたけれど、「じゃぁ、また今度、味見してください」と、あっさりと言ってくれた。
私はうなずくしかない。

「もう10時になる。
帰ろ、ジョヨンssi」

いつもと変わらない、どこか少しだけくだけたジョンファの声に、私はまだうろたえながら腰を上げた。

「またいらっしゃってください」

雪だるまの声に見送られて、私たちは歩道を歩き出した。





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