あのクリスマス・イヴの出来事は多分、初雪が見せてくれた幻だったのだろう。
彼はもう二度と、私を部屋に誘おうとはしないのだから。
でも・・・、それでもいいと、私の心が言っている。
傷つくのはもういいと、私の心がささやいている。
でも・・・



例によって残業をしていると、お決まりのようにカン・ジョンファがフロアに駆け込んできた。
そして、毎度の如くデスクの上のメモやら何やらを片っ端から処理して、メールのチェックをして、何本かのメールを送信して、そして、やっと私の存在に気づく。
いい加減、フロアに入ってきたときから、私の存在に気づくふりでもしろと思うのだが、マジに気づかないのか、それともわざと無視するのか、とにかく彼はいつも最後の最後まで私を見ない。
そして、挙句に言うのだ。
「ジェヨンssiって、仕事が好きだね」と。

「ジェヨンssi」

ほら、おいでなすった。
続く言葉は・・・・。

「一緒に帰ろう」

はい?
私は少々驚いて彼を見上げた。
少なくとも、こいつは会社の中では私を誘わない。
いや、誘わなかった。
あのクリスマス・イヴの前日以来。
今、私たちは、時々、深い冬の街角を一緒に歩いている。
けれど、本当に時々だ。
あの一夜があるから、引くに引けないけれど、これ以上深入りするとまずいとでも思っているのか、彼は決して馴れ馴れしくしない。
だから、今、ストレートに彼に誘われて、そう、たかが「一緒に帰ろう」と誘われただけで、私の動悸は高まり、手が震えそうになっている。

「何ですって?」

思わず聞き返した私に、相変わらずとぼけた男は口を尖らせる。

「え、だから、一緒に帰ろうって」

「送ってくれるというの?」

「うん、地下鉄の駅まで」

だろうと思った。
驚いて損した・・・。

「いいわよ、まだ終わんないもん」

「ほっとけばいいよ。どうせ、くだらない書類だろ」

「あなたねぇ・・・、営業書類にくだるもくだらないもないわよ。
あなたたちの命綱に等しいでしょ」

「マジに命綱だと思うなら、自分で作ればいいんだ」

「言ったわね、もう二度とあなたの書類は作りませんからね」

私は意地悪くいいはなってやった。
しかし、敵もさるもの。
「僕のは別」・・・と、にっこり微笑まれて、私は返事ができない。

「ね?」

念を押すな!
そんなにきれいな顔で。
あああ、こいつ。
本当に首絞めてやりたい。
かわいさ余って憎さ百倍という言葉の意味を、この年になってやっと知った私。
私は、自分自身にうんざりして肩から力を抜いた。

「だから、帰ろってば」

「一人で帰りなさい」

これ以上、私の心をかき乱すな。

「どうして?
今日はバレンタインデーだよ」

「だから、何よ」

「何か、忘れてない?」

「何を?」

「だから、バレンタインデーだってば」

期待を込めた彼の言葉に、私はよいしょっとデスクの下から大きなペーパーバッグを引っ張り出すと「はい」と、彼のほうに差し出した。

「何?」

「チョコレート」

「はい?」

「早く受け取ってよ。重いのよ、チョコレートって」

彼は、期待半分、けれど、それ以上にいぶかしげな顔をしながら、デスクをまわって私のそばにやってきた。
そして、私が差し出しているペーパーバッグの中を覗き込むと「わぉ・・・」と、ひとことのたまわった。

「デスクの一番下の引き出しにも入っているわよ」

「・・・見たくない」

まぁね、その気持ちも分かる。
何しろ、朝から、このフロアには理由あり顔な女子社員がうろうろしていた。
ジョンファは気にも留めずに営業に出てしまったので、仕方なく私が勝手に彼の引き出し開き、「ここに入れておいてちょうだい」といってしまったのだ。
「きゃぁ〜」という黄色い嬌声を嬉しげに上げ、一番先に恭しい手つきでそこにチョコレート(それも、ゴディバだった)を入れたのは私の横のデスクに座っている、かわ生意気(かわいい+生意気)なチェミンだった。
後は堰を切ったがごとく、次から次へとチョコレートがその引き出しの中に忍び込み、残念ながらすぐに満杯になった。
で、また仕方なく、私は、更衣室の隅っこから大きなペーパーバッグを探し出してきて「ここに入れてちょうだい」と、今度は言っちゃったってわけで・・・。
もちろん、そのパーパーバッグだって、すぐにいっぱいになった。
恨めしげな男性社員も多かったが、限度というものがあるだろう、限度というものが。
だいたい、「社内恋愛禁止」という、頭の固いおじちゃんたちが決めたルールがあるって事をお忘れでないか、若人よ。
・・・言うだけ無駄だってことは、分かっているけれど・・・。
何しろ、毎年恒例のことだから。
うんざりしながらジョンファは私の手からペーパーバッグを受け取り、ついでに自分のデスクの引き出しを開く。
そして、わんさと詰め込まれていたチョコレートを全部デスクの上に積み上げてくれた。
金銀、ブラウン、赤、緑、ピンクや目がくらむほどの純白や、彩り鮮やかなラッピングペーパーに包まれ、リボンで華やかに飾り立てられた様々な大きさの箱やら袋やら・・・。
様々なブランドのゴージャスなチョコレートが山と積まれているのを見るのは・・・
彼じゃなくとも、いささか・・・気分が悪い。
中にはぬいぐるみがかわいらしく覗いているちいちゃなペーパーバッグまであった。

「もてるわね、ジョンファ君」

「これ・・・どうしたらいいのかな?」

「食べなくちゃ」

「冗談」

「・・・じゃないわよ。
彼女たちの気持ちに報いるためには、全部食べて1ヵ月後には、ちゃんと御礼をして・・・」

げんなりした表情で、彼は私を見る。
太目の眉を少しだけ寄せて、下唇をちょっと歪めて。
ん・・・、いいよ、その顔も。
・・・私以外に見せちゃだめよ、そのお顔。
私はもう冷静でいられるけれど、初めて見るオンナどもなら、たちまちファンになるに決まっている。
・・・私は、彼に惹かれるほどに自虐的になっていく。
自覚できるだけに切ないけれど。
でも、彼は、そんな私の気持ちに気がついているのかいないのか。
二人きりのときはいつもとぼけているから分からない。
仕事中は、例によって完璧で冷静な営業マンだし。
最近では、少しばかり難しい仕事も次々と与えてくれて、私は甘い気分に浸ってなんかいられない。
物理的に時間が足りなくなって、チェミンに仕事を回せば彼女は嬉々としてやってくれるけれど、そんな彼女の顔を見ちゃうと、逆に今度は意地でも私がやりたい!と思ってしまうし・・・。

「ジェヨンssi」

彼が私の顔を覗き込んでいる。

「何よ」

「こんなのほっといて、帰ろうよ。ご飯、まだでしょ。奢る」

「あなたに奢ってもらうと後が怖い」

「早く行こうよ、・・・あいつが待ってる」

「あいつって?」



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