色づく街角 中編




いえねぇ〜と、心の中で叫びながら、私はしばしドアの前に突っ立っていた。

さっき、つい2時間ほど前、散々泣いたというのにもうほかの男に心動かされるなんて・・・と舌打ちしたのは私だが
しかし、だからこそこんな無防備な男の姿にさえショックを受けるのかと、いまさらながらに自分の心に開いた穴の大きさを自覚する私。

「早く入ってよ。ここじゃ、仕事できないよ」

こともなげにジョンファは言う。
そのセーターに毛玉が一杯ついていることを、私はまた見咎めた。

それにしても、こいつ・・・、どうしてこんなボロボロのセーターを着ているんだ?
伸びきった袖口が手の甲にまでかかっていてマジに5〜6歳の男の子が、ちょいと大きめのセーターにくるまれているような姿じゃないか。
そのうえ、はだし・・・。

ええ・・・、この部屋に入るのか、私。
無事に出てこられるだろうか(一体何の心配してるんだ、私)。
ぼ〜っとしている私に焦れたのか、彼がきっと眦を上げた。

「ジェヨンssi!」

「え?」

「仕事!しろよ!!!」

おっと・・・6歳の男の子がたちまち30歳近いやり手のビジネスマンに変身して、私の前に立つ。
私は、はっと背筋を伸ばして、彼の部屋に入っていった。
1LDKの彼の部屋は、彼の会社のデスク同様それなりに片付いている。
デスク代わりに使っているのか小さな2人用のダイニングテーブルの上にノートパソコンが置かれ
ビジネス関係の雑誌やら、本やらが乱雑の一歩手前・・・という風情で積み上げられていた。
あっちこっちから付箋がはみ出しているのを見て、伊達にやり手の営業マンをやっているわけじゃないんだなと、変なところで感心する。

10階のベランダから秋の澄んだ光が注いでいる。
光の当たらない壁の天井まで組み上げられたシステム家具の中に、小さなテレビとオーディオセットとDVDデッキなどがバランスよく配され、夥しい量の本も並んでいる。
今は、K−ポップがそれほど耳障りじゃない音で流れている。
こいつ、こんな軽い音楽が好きなのかと心のどこかでほっとする。
ラフマニノフやモーツァルトなんか流れていたら、私、もう帰れなくなりそうだ。

「そこ、テーブルの上、全部揃っているはずだよ。
どうぞ」

と、促され、私ははっと気付いた。

「どうぞ・・・って、あの、資料、全部持ってるんなら、
なぜ、自分で作らなかったの?」

「ん?
仕事、あった方がよかったんじゃないの?
もっとも、忘れられちゃうとは思ってなかったけれど」

「は?」

「いいから、やってよ、僕はコーヒー淹れるから」

私のギモンをはぐらかし、彼はカウンターキッチンにたつ。
私は彼のパソコンの前に座った。
ここへ来る前に彼のパソコンにメールで出来上がったところまで送ってあったので、あとは足りなかったデータをはめ込み彼がメモしていた結論に結びつければいい。
私はディスプレイを覗きこんだ。
しかし、その前にちらりとカウンターの向こうに立っている彼の姿を見た。
心持ち目を伏せ、シンクで何かを洗っている。
セーターの袖を二の腕まで捲り上げ、その見事な腕を惜しげもなく私に見せてくれていた。
ずるり・・・とセーターの袖が落ちてくると、泡だらけの両手を使うことができず口を尖らせ、あごを使って袖を上げようとしている。
その無邪気な仕草に我もなく胸がときめいてしまうのを、私は抑えられなかった。

いかんいかん。
私は今度こそ、真面目にディスプレイと向かい合った。
早く済ませてしまわないと、なんだか・・・まずいことになりそうだ。
彼が用意していたデータをまとめ、彼が導きたかった結論に落としこむために、私はキーボードの上に指を走らせ続けた。
その鼻先に、芳しい香りとともに大振りなマグカップが差し出された。

「どうぞ」

彼が自分もペアのカップを手にして私にコーヒーを勧めている。

「ちょっと一休み。
どうせ、もう終わるでしょう、ジェヨンssi なら」

また「ふあぁい」と大きなあくびをして彼は床に直接座り込んだ。
ソファの類は置かず、ラグマットの上にカーテンと同じブラウンカバーをかけた大き目のクッションがふたつ転がっている。

「眠そうね」

「うん・・・、徹夜で相手していたから」

ボソッと言う彼の言葉に、私はぎょっとして部屋の中を見回した。
閉められたドアの向こうにベッドルームがあるのだろうと、思わずそのドアを凝視する。
まるで、情事の痕跡がどこかに残っている事を懼れるように。

「参ったよ、強すぎてさぁ・・・。
こっちは仕事で疲れているってのに
許してくれないんだもん。
何度も挑まれて、もうへとへとだよ」

おいおい・・・。
しかし、このとぼけた男は、また大きなあくびをすると、コーヒーをごっくんと飲んだ。

「今夜もまた来て欲しいって言われたんだけれど、
あ〜あ、体持つかなぁ・・・」

こいつ、こいつ、こいつ〜!!!!

私のテンションはいっぺんで上がる。
私は飲みかけていたコーヒーのマグをどん!とテーブルの上に放り出した。
そして、黙ってまたパソコンに向かった。
ん?・・・と、彼が私を見上げる。

「急がなくていいよ。
もうすぐお昼だし・・・。
お礼にランチぐらいは奢る」

「・・・」

「どしたの?」

「今夜もデイトなんでしょう?
さっさと終わらせて私は帰りますから、どうぞお気遣いなく」

「デイト?」

いぶかしげにつぶやくと、彼はふらりと立ち上がり、もうひとつの椅子を私の横に持ってきてどさっと座りこんだ。
そして、私の顔に何のためらいもなく顔を近づけディスプレイを覗き込んだ。

「ああ・・・ここ、こっちの数字使ってよ。
多分、そのほうがクライアントは喜ぶ。
そのほうがはったりきくでしょ」

私は黙ってその指示に従う。

「ん、これは・・・ちょっと待って
こっちの雑誌に関連記事が載ってたと思う。
ネット検索してみた方がいいかな・・・」

ぶつぶつとつぶやきながら、手元の雑誌をめくる彼を見て、私は意地悪くつぶやいた。

「ジョンファssi」

「ん〜?」

「自分でやったほうが早いでしょう」

「そう?
まぁ、確かにね」

こいつ・・・。

「でも、あなたがやったほうが、気分転換になるでしょう?」

「え?」

まだ彼は手元の雑誌に視線を落としたままだ。
そしてさりげなく毒を吐く。

「話には聞いていたけれど、ショックを受けた人間って本当によろめくもんなんだって
あなたを見ていて初めて知った。
彼女とあいつの婚約が皆の前で発表されたとき、あなた、真っ青になって、足元がふらついて
そばのデスクに手をついた。
それ、僕のデスクだったんだけれど・・・」

私の手が止まる。

「ああ、凄いと思った。
すぐに自分を取り戻して、ジェヨンssiは仕事に戻った。
でも、あの日から、あなた上の空でしょ。
だから、ちょっと苛めたくなったのは確かだけれど。
あ、あった、この話、ちょっと絡めてほしいな」

私は傍らの、すぐそばにある彼の顔をにらみつけた。

「にらまないでよ
僕、ジェヨンssiに資料作り頼んだの初めてでしょ。
それにさえ気付かないほど、あなたは上の空で仕事していた。
ルーティンワークに近いから、ミスはそれほど目立たないけれど」

「同情してくれたというの?」

「まさか!
僕は昨日、定時に帰りたかった。
だから、初めてジェヨンssiに書類作りを頼んだ。
そしたら、すっかり忘れてくれた。
呆れたね、僕は。
で、やっぱり自分でやったほうがよかったと後悔して、
でも、ジェヨンssiは、休日出勤するのも厭わないと言うから、じゃ、やってもらいましょうかと。
まさか、自分がミスってあなたに不完全な資料を渡してしたとは気付かずに」

おどけたような彼の言葉に、しかし、私はにらみ続けた。

「あのね、わざとじゃないよ。
営業部の生き字引、あなたが辞めちゃったら
営業部の機能は完全にストップするとまで言われている
ジェヨンssiを困らせるなんて
そんな恐ろしい事、小心者の僕にはできないって」

皮肉なのか、なんなのか。
しかし、そのやや目じりを下げた彼の顔を見て、私は悟る。

「・・・以前から、知っていたのね?」

言葉が苦い。
言葉同様、私の表情もかなり苦かったに違いない。
けれど、彼は見ない振りをして、まるで悪びれずに口を開いた。

「・・・うん。あいつ、営業1課の仲間内で飲みにいくと
ミスンssiのことのろけてたけれど、あなたのこともほのめかしていた。
名前は言わなかったけれどね。
それに・・・、あいつ、あなたにばかり書類作り頼んでいたでしょ。
あなたもそれを嬉々として作っていた。
ま、会社にも公けにしたここ一月は、全くあなたに頼んではないようだけれど。
でも、ジェヨンssiの作った資料や書類は完璧だって皆認めている。
僕は、初めてだったけれど・・・」

そうか・・・。
私は彼から視線をそらし、文字が羅列している画面を覗き込む。
分かっていたけれど、そこまで愚弄されていたとは思わなかった。

1年間、そうよ、ちょうど、今頃の事だった。
鮮やかに色づく街路樹の下で「付き合ってもらえないかなぁ」なんて、ささやかれて有頂天になって。
30歳を過ぎた今になるまで、何度かの出会いと別れを経験していたはずなのに、たったそれだけのささやきに、
胸がときめいて、ぱぁっと体中の細胞が街と同じ黄金色に耀くような感覚に堕ちた。
確かにいい男だったと思う。
今、私の横にいる男みたいに無礼と無愛想の紙一重みたいでもなかったし、営業マン特有の如才なさで、いつも私を楽しませてくれたし。
彼から幾度も好きだよ、愛しているよとささやかれたのに、それが錯覚だったなんて思いたくない。
まさか、同じ言葉をほかの女、それも私の後輩にささやいていたなんて・・・。
たった半年の交際でミスンと結婚するなんて聞かされて、彼の前では涙も出なかった。
馬鹿にして・・・馬鹿にして・・・。


「ジェヨンssi」

黙り込んで、キーを打ち続けた私を彼が覗き込む。
私はもう彼の相手をせずに、ただ言葉を画面上に並べる。
間もなく、私の手は止まった。

「終わったわ。これで私のお役目は終わり。
明日、必要部数、コピーしますから。
ご迷惑おかけしてすみませんでした」

硬い口調になる私をはぐらかすように、彼はいきなり立ち上がり、大きく伸びをした。
まるでバセットハウンドが、ぐうっと前足を伸ばして伸びをするような感じだった。

「いいよ、こっちこそごめん、手間かけて。
ランチ奢る」



15分後、私は彼と並んで歩いていた。

さすがに着古したセーターは脱ぎ、変わり襟のシャツにV字ネックのダークフォレストグリーンのセーターを重ねている。
赤や黄色に色づき始めた街路樹の下、その深いグリーンはとても綺麗に映える事を、私は彼の横に立って初めて知る。
私は白いブラウスの上から大きなモカブラウンのショールですっぽりと体をくるみこんでいた。
秋にふさわしい色を選んで着たつもりだが、少なくとも、私よりはこいつの方が色づく街角には似合うだろう。

しかし、綺麗な男だ。
サラリーマンにはあるまじきやや長めの髪の毛だって彼なら許してやろうという気になる。
秋の光を受けて、その髪の毛が少しだけ茶色がかっていることが鮮明になる。
時々、高い空を見上げるその眼差しが、はっとするほど色っぽい。
何でこんなにいい男がまだ独身なのか、それどころか、浮いた噂ひとつないのは、それはわが課の七不思議のひとつだった(あとの六つは知らないけれど)。


「何食べたい?
何でも奢る。
さすがにあなたのつくったレジュメ、完璧」

「いいわよ、昨日、さっぱりと忘れていた私の責任よ。
私なんかほっといて、彼女とお昼食べなさい」

少々拗ねる気持ちも働いて、私はお局様の口調に戻って突き放した。
もう、同情なんかいらない。

「彼女なんかいないよ。
いたら、こんなに気持ちいい休日に、寝坊なんかしない」

あっけらかんと言い放つ男。
だって、さっき・・・。
棘のある私の視線に、彼は気がついたのだろう。

「あのさぁ・・・誤解してない?
徹夜させられたのは、甥っ子になんだ」

「甥?」

「うん。今年8歳になる甥。
兄さんの忘れ形見」

「ひょっとして・・・、デスクマットにはさんであった写真」

「ああ・・・、うん。彼。
かわいいだろう。
あれは兄さんが亡くなる前の写真だから、まだ5歳だったけれど、
今は、8歳。
凄く生意気だけれど、とっても素直で、僕になついてくれている」

嬉しそうに目を細めて語る彼の顔をちょいと呆れるように見上げて、私はあの写真を思い出した。
ジョンファに似た面差しの(つまりとてもいい男の)兄、黒目がちの大きな目がとても印象的なその妻。
優しげに微笑む小さな顔を包む柔らかそうなミディアムヘアの裾が肩の辺りで遊び、夫にその肩をそっと抱かれていた。
そして、その妻は、また自分の息子の両肩に手を置いていた。
息子は・・・、ジョンファの甥っ子は、両親のいいとこどりをしたような男の子だった。
たった5歳だというのに、多分、彼は道を歩けばおばちゃんたちが必ず振り返るだろうと思わせる雰囲気を持っていた。
3年たって8歳になったという彼が、ちょいと生意気な口なんかきいたら、世のオネエ様、おば様方は、ふるいつきたくなるに違いない。

ん?と、私は横を歩く男に再び視線を向けた。
多分、この男も幼い頃は同じような雰囲気を持っていたことだろう。
もっとも、仕事を離れた彼は、その性格そのままのような気もするが・・・。
生意気で、気まぐれで・・・。


「何でその8歳の甥っ子がジョンファssiを徹夜させたのよ」

「あ?
テレビゲームだよ。
昨日、甥っ子の誕生日のお祝いに実家に呼ばれてたんだ。
で、夕食食べたあと、甥っ子にせがまれて、テレビゲームのバトルものやったんだよ。
でも、毎日テレビゲームやってる8歳にかなうかよ。
何度やっても勝てなくてさ。
勘弁してくれって言ったのに、あいつ、許してくれないんだ。
最後には、義姉さんに、それも、僕が叱られたんだ。
『ジョンファssiは大人なんだから、この子の言いなりになってどうするの』って」

義姉さん・・・、あの大きな目の女性ね。
けれど、ジョンファはそれさえ楽しいという表情だった。

「いい子だよ、ジョジョは」

「ジョジョ?」

「うん、彼のニックネーム。
ジョンギルって言うんだけれど、兄さんが小さいときからジョジョって呼んでたんだ。
彼、叔父さんがパパの代わりになってくれたらいいのになぁって、
何度も言うんだ」 

目じりを下げて、本当に嬉しそうに語る彼を見ながら、さっき思い出したわが課の七不思議を思い出した。
納得だ。こいつに彼女も妻もいない理由。
お稚児さんシュミだとは言わないが、8歳の甥っ子にこれほどでれでれの男と恋人同士になろうとは誰も思わないだろう。
今まで、こいつにコクったおんなどもは、みんなこういう彼の素の姿に面食らったに違いない。
・・・しかし、そんな噂のひとつもないってことは、誰もここまでたどりつかなかったってことか?

ん?
なんだか私、凄く得したような気分・・・かな?
いやいや、やっぱり、こいつ、どこかおかしい。

「今日は昼間は義姉さんとどこかに出かけるらしくて
だから、また夜来てねってねだられててさ
でも、どうしようかと・・・」

おいおい。
私は呆れた。
やっぱり、あきれ返った。
もうすぐ30歳になろうかという男か、これが?
なまじ女性よりも(つまり私よりも、だ)美しい容貌をして、その上、体つきはたくましいときている。
そんな男が、「甥っ子のジョジョが・・・」だなんて。
スーツ姿と部屋着(あのよれよれのセーター姿!)のギャップ以上に、会社での彼と今、甥を愛しむ彼のギャップはデカい。
デカすぎる!
私はうんざりとして、マジに、ここらへんで別れようと決心した。
並んで歩くにはいい男だがいかんせん、年下だし、甥っ子に心奪われているし・・・

「ジョンファssi・・・」

しかし、私の言葉は宙に浮いた。
私の傍らを歩いているはずだった彼は、今、私の3歩ほど後ろに突っ立っていた。
そして、その呆然とした視線は、私を通り越し、私たちのずっと前方にすえられている。


「ジョンファssi?」

私は彼の視線を追った。
そして、そこに、あの写真そのままの3人を見つけてしまったのだ。




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