色づく街角 前編




「先輩、お世話になりました。お元気で」

引き攣ったような笑顔で、2つ年下のミスンが私に挨拶する。
その両手には抱えきれないほどのお祝いの花束を持って。
周囲に立っていた同僚たちが、しんと静まり返って私の返事を固唾を呑んで待っている。

なんて返事をすればいいんだろう?
ええ、そうね、散々面倒を見てあげたのにこの仕打ちは何?」とでも?
でも、私はにっこり笑ってこういった。

「元気でね、ミスン。幸せになってね」

さわっと、周囲の空気が動く。
みんな一斉に呆れたように息を吐いたのだ。

彼女は一度頬の辺りを痙攣させると、またぺこりと頭を下げて私の前から離れた。
そのとたん、同僚たちにわっと囲まれ、「披露宴には、私、何を着ていけばいい?」「お祝い、何が欲しい?」
「新婚旅行のお土産は、みんな別々にしてよね」など、口々に注がれる言葉にあでやかに微笑みながら、フロアを去っていく。
私の周りからは、さぁっと潮が引くように人がいなくなった。

見世物はもう終わりだ。
物見高い野次馬ども、さっさと仕事にもどれ!
・・・と、思っていたら、物見高い男が一人、まだ私の前に立っていた。
まぁ、こいつなら許してやろう。
2つも年下の癖に、人をこき使うこのフロアきっての営業マン。
デスクの前に座っているときは、仕立てのよさそうなカッターシャツを二の腕まで捲り上げ、次々と案件を処理している男。
ブリーフケースを手にこのフロアを飛び出していくときにはネクタイのノットもきりりときれいなトライアングルにして、長い足は何の迷いもなく、足早やに去っていく。
その上、顔だ、顔。
ハンサム男の見事な黄金率。
笑うと目じりがやや下がるのはご愛嬌だが、高い鼻梁、男らしく凛々しい眉、しわは多いけれど、やや大きめのふっくらとした唇。
ノンフレームのメガネがこれほど似合う男をほかには知らない。
その清々しいほどの男が、今、憮然とした表情で私の前に立っていた。


「ジェヨンssi」

「はい」

「できてる?」

「は?」

間抜けな私の返事に、この男は、いらだたしげに美しい眉をしかめた。

「営業書類だよ、昨日頼んだじゃないですか。
データ出して、まとめておいて欲しいって」

「・・・あ・・・」

私は一瞬で青ざめた。
思わず手元のデスクの上を見ると、大きなポストイットに確かに書いてある。

「カン・ジョンファssi 月曜日までにレポートup」と。

「忘れたな・・・」

咎めるというよりは、恨めしげに彼はつぶやいた。

「すみません・・・」

完全な私のミスだ。

実は、私は今日1日、何をやっていたのか全く覚えていない。
機械的に目の前の電話を取り、営業マンの報告と指示を受け、書類を作っていった。
ところが、うっかりすっかり、この仕事がすっぽりと抜けてしまっていた。

「あ〜あ・・・」、ジョンファは呆れたように私を見下ろす。

「責任とってよね、月曜日の朝一だぜ、この仕事」

「すみません、明日、出てきます」

「明日? 休みだよ、ここ」

「休日出勤ならしょっちゅうしてますから」

「あ、そう? ンじゃ、お願い」

こともなげにそれだけ言うと彼は自分のデスクに戻ってしまった。
つまり私の斜め前。
手早くデスクの上を片付けると「お先!」と、軽く片手を挙げ、さっさとフロアを後にした。
その身軽さ。
まるで爽やかな初夏の風のようだ。

ん?
しかし、ウィークエンドの午後6時。
デイトか?
私はブルンブルンと首を振った。
同僚の、それも年下の男のデイト事情なんかにかまっていられない。
私は目の前のパソコンのディスプレイに目を落とした。
今日中に片付けなくてはならない書類が山と積まれている。

(ミスンの奴、仕事を山と残して寿退社していった・・・)






翌日、私はガランとしたフロアでパソコンの前に座っていた。
20階建てのこのオフィスビル、休日出勤している人間は少なくないはずだが私のいるフロアには誰もいない。
常には100人以上の人間が、ざわざわとうごめいているフロアだった。
ずらりと並んでいるデスクには、様々な書類が防壁のように積み上げられその書類を支えるようにパソコンのディスプレイの頭がにょきにょきと生えている。
だたし、今はみんな沈黙しているが・・・。
ただ、私のパソコンだけがちらちらと画面を瞬かせている。
ジョンファから預かったデータと書類、メモ書きに等しいキーポイントの羅列を眺めながら、彼の必要としている書類を作り上げていく。
これが営業事務の仕事かぁ?と、ぼやきつつ、私は書類を作る。
そういえば、うちの営業1課の人間は、何でもかんでも私に押し付ける。
どうせ、私は営業事務の中でも一番の古株だ。
同僚や後輩は、結婚や出産を期にどんどんと退社していく。
本当は昨日、退職するのは私だったはずだ。
「結婚おめでとう!幸せにね!」と、数少ない同僚たちの、そして後輩たちの羨望と嫉妬の言葉に満面の笑みを浮かべて
そして、「ざまぁみあろ」という気持ちを隠しもせずに鷹揚にうなずき、「ありがとう」と、言葉だけは奥ゆかしく答えるのは私だったはずなのに。
つつっと、思いもかけず涙が零れ落ちた。
私は慌てて手のひらで頬を押さえた。
そして周囲を見渡す。
ガランとしたフロアには誰もいないことは分かっているはずなのに、見回してしまったのは、本音を言えば誰かに見咎められたかったからだ。
こんなに辛いのだと、こんなに哀しいのだと誰かに認めてほしかった。
一人で泣くのではなく、誰かに慰めてほしかった。
「社内恋愛禁止」なんて時代錯誤な社則に素直に従って誰にも言わずにそっと育んできたはずの愛は、
同じ社則を逆手に取られて、見事に裏切られた。

馬鹿だったのは私。
お利巧さんだったのがミスンだっただけ。
私はひとしきりパソコンの前で泣くと、またしっかりと涙を拭いた。
もう昼近い。
早くこの仕事を済ませないと、あっという間に1日は終わってしまう。
もっとも・・・、もう休日の楽しみなんか、私にはないけれど。
テンションは上がらないまま、私はキーボードを叩き続けた。
しかし、半分ほど終わったところで、私の指は停まった。
資料が抜けている。
私はジョンファから渡された資料の束を最初から見直した。
しかし、ない。
やはり抜けている。
重要なデータが落ちている。
そのデータがないと前に進むことはできない。

あのやろ〜。
「責任取ってよね」なんぞと、私よりも美しい顔をしてぬけぬけと。
いっそのことおっぽり出してやろうかと思ったが、それでは私のプライドが許さない。
私は自分の席をたつと、私のデスクの斜め前、ジョンファのデスクに回りこんだ。
彼のデスクの上はきれいなものだった。
両側の同僚たちのデスクの上には様々なものがとっ散らかっていたが、彼のデスクはすっきりさっぱりと片付いている。
だからこそ、私は気がついた。
デスクマットにはさみこまれた写真に。
彼によく似た男性と妻らしい女性とその息子(多分)の写真。
3人はそれぞれに頭を寄せ合い、幸せ一杯の表情でカメラに向かって笑っている。
今まで気がつかなかったわけではない。
多分、ジョンファがこの写真をここに挟み込んだのは、つい最近のはずだ。
そうでなければ、このフロアのお局さまと呼ばれている私(自分で認めるのも虚しいが)、知らないはずがない。

しかし、誰だ、この写真。
男性は確かにジョンファによく似ているが、彼は正真正銘の独身だったはずだ。
彼の兄?
しかし、彼のお兄さんは数年前に亡くなったはずだった。
亡き兄一家の写真を後生大事にしているということか。
しかし、私はそれ以上の詮索をやめた。
そんな余裕は今の私にはない。
私はジョンファのパソコンを立ち上げた。
自慢じゃないが、このフロアのパソコンのキーワードなら全部知っている。
お局様を舐めんなよ・・・。

しかし、私が打ち込んだキーワードは、「ピー」という耳障りな音とともに拒否された。
私は舌打ちした。
用意周到でしたたかなジョンファは、キーワードを変更しているに違いない。
仕方なく、私はジョンファの携帯電話の番号を呼び出した。
休日に連絡するのは気が引けたが、背に腹はかえられない。
というより、もともとの原因は彼じゃないか。

しかし、電話はエンエンと呼び出し音を聞かせてくれた。
携帯に出られない状況にあるのなら、留守電にするなり電源を切るなりすればいいものをジョンファの携帯は呼び出し音を鳴らし続けている。
いい加減、同じ単調な音を聞き飽きた私は受話器を置こうとした。
仕事ができないのは私の責任じゃないぞ、お前の責任だ!と、心の中で毒づきながら。
ところが、耳から離しかけた受話器の向こうから「ふわぁい・・・」という間の抜けた声が聞こえてきてしまったのだ。

ふわぁい・・・だと?!

「もしもし・・・、誰だよ」

「キム・ジェヨンです。お休みのところすみません」

「・・・ああ・・・、ジェヨン女史・・・何?」

何?だと、このやろ〜。

「あの・・・、資料の件なんですが」

「資料? 何? 資料って」

お前が依頼した書類の資料に決まっているだろう!!

「昨日依頼された営業書類の件ですが。
いただいた資料から重要なデータが抜け落ちているようなんですが」

「ん? 抜けてるの、あれ・・・。ああ、そう」

そう・・・じゃない!

「それで、今、
ジョンファssiのパソコンを立ち上げて確認しようとしたんですが・・・」

「ああ・・・そうして」

「キーワードを教えてください」

「キーワード・・・やだ」

やだ・・・だとぉ!!

何考えてんだ、お前!

「では、もうできませんが・・・」

「ンじゃなくてね、どっちにしてもパソコン立ち上げても役に立たないんだ。
だって、その必要なデータ、ここにあるもん」

こいつ・・・とぼけるのもいい加減にしろ!

「じゃぁ、FAXで送ってください、至急」

「僕ンとこFAXない」

「お近くのコンビニからでいいですから」

「やだ・・・、今起きたばかりだってのに、コンビニになんかいけるか」

私は思いっきり受話器をたたきつけた。
のらりくらりとしたジョンファの受け答えでいい加減頭にきているのに「やだ」だとぉ!!

ばかやろ〜!!
私は、さっさと自分のパソコンの電源も落とした。
これ以上、仕事なんかしてやるか!
月曜日の会議か営業か知らないが、おたおたしろ!
バッグを抱え上げたとき、デスクの上の電話がなりだした。
私はちょいと斜めの視線でにらみつけた。
多分、あいつだろう。
私は受話器を取らない。
ひとしきり喚いた後、電話は突然黙った。
と、今度は私の手の中で、携帯電話が鳴り出した。
ついでにバイブまで始めた。
手のひらがくすぐったくて、私は携帯電話をバッグの中に落とした。
すぐに留守電に切り替わる。



私はしばらく、窓の外を眺めていた。
オフィスビルの前を走るメインストリートに等間隔に植えられている街路樹が美しいグラデーションを見せ始めていた。
黄色や茜色に移ろっていく街は、それだけで歩く人を楽しませている。
ついこの間まで、私だって美しい街路樹の下を腕を組んで歩いていく恋人同士の一人だったはずなのに・・・。

しかし、また私は想いを振り切る。
そして、おもむろに携帯電話をバッグの底から取り出した。
彼の伝言を聞くために。
しおらしく「すみません」の一言があれば、許してやろう。

しかし
「ジェヨンssi。すぐにこっち来てよ。
資料のコピーはこっちにも揃っているから。
早く仕事終わらせてくれないと困るの僕だし。
マンションは会社のすぐ、そばだから、住所は・・・」

ぬわんだと!!!!!
ぬわんだと、ぬわんだとぉ〜!!!!
ばかやろ〜と、私は一声吼えた。
フロアに誰もいなくて幸いだった。
そうでなければ、日ごろ、「冷静で仕事のできるお局様」で通っている私のイメージが大幅にダウンするところだった。



しかし・・・、結局、私は彼のマンションの前に立っていた。
一度依頼された仕事をちゃんと終了させること。
それも、依頼した人間が舌をまくような仕上げにすること・・・が、長年事務に携わってきた私のプライドだった。
今回の仕事は、あいつのミスで資料が揃わず、その上、傍若無人で恥知らずで礼儀知らずな彼のせいで途中で放り出してやろうと思った。
しかし、彼の手元には完全な資料が揃っている。
それを知ってしまった。
やり終えるしかない。
それが私の誇りであり私のよりどころだった。



確かにジョンファのマンションは、会社から近かった。
色づき始めたメインストリートを抜け、私は渋々とオートドアのインターフォンの前に立った。
彼に教えてもらった部屋番号を打ち込むと、また「ふあ〜い」という間の抜けた声が聞こえてくる。
そして私が名乗る前に、ドアがす〜っと開いた。
10階の彼の部屋のドアチャイムを押すと、ややあって、ドアが内側から開かれた。
顔をあわせたら毒づいてやらないと気がすまないと、肩に力が入っていた私だったが、そこに立っているジョンファを見て、すっかり気負いがそがれてしまった。
袖口が伸びきったグレイのセーターとデニム姿の彼。
髪の毛は逆立ち、まだうとうとしていたのか、目がとろんとして二重のラインが深い。
まるで、ティーンエイジャーのような姿で、彼はそこに立っていた。

「どうぞ、入って」

びっくりして立ちすくんでいる私を部屋に通すために体を引いた彼はあいたほうの手で目をこすっている。
しかし、私は動けない。
そんな私をいぶかしげに見て、「なんだよ」とでも言うように、彼はまた目をこする。
会社で見る彼は、スーツ姿をびしっと決め、言葉遣いも横柄の一歩手前年上の私に対しても生意気な口調を崩さない。
(ま、今も生意気な口調は変わらないが・・・)

今の彼の格好、私の母性本能を直撃したって事・・・・

ああ、いえねぇ〜。


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