「ジョンファ!起きて、遅刻しちゃう!!」



4時間後、私は朝食と彼(と私)のお弁当を用意してキッチンから叫んでいた。

むっくりと起き上がった彼は、しばらくぼおっとしていたが

去年の秋、私を堕とし込んでくれたしぐさで目をこすった。

寝乱れた髪の毛を慣れた手つきでまとめると

すぐにサイドテーブルに手を伸ばし、数時間前に私が置いためがねをかける。

いつも思うのだけれど、こいつ、少し低血圧気味か?

目覚めたばかりの焦点が合わないような茫洋とした視線が、やたら色っぽい・・・

なんて、絶対に誰にも言えないが。

(言いたいけれど!)

めがねをかけてしまうと視線が鋭くなって

さっさと「カン・ジョンファ」になっちゃうのはちょいと惜しい気もする。

・・・なんてこと言っている時間はなかったんだ。



「ジョンファ、ご飯食べて!

 私、会社に行かなくちゃ!」


「いいよ。先に行って。

 僕はあとから出て行くから」



ばたばたしている私を目で追いながら、まだかったるそうに彼は言う。


「あとからって・・・」


ドレッサーの前で口紅を引きながら

私は鏡の中から私を見ているTシャツ姿のジョンファをみつめ返す。


それから、ドレッサーの一番上の引き出しを開くと、その奥から一本の鍵を取り出した。



「朝ごはんとは別にサンドイッチを作ってあるから、帰る途中で食べてね。

 それから、これ」


私は彼の手のひらに鍵を落とす。


「合鍵?」


「・・・うん。ちゃんと鍵閉めて行ってね」


「ふうん・・・」


と、ジョンファは珍しそうにそのシルバーの鍵を眺め回している。


「どうしたの?」


「合鍵って、初めてだ」


念のために言っておくけれど、私だって渡すのは初めてだ。

彼は鍵を持った手のひらを開いたり閉じたりしている。

目がきらきらして、まるで新しいおもちゃをもらった子どものように嬉しそうだ。


「ねぇ、ジェヨンssi」


「なぁに?」


「・・・退職願い、出すのを止めないよ」


びっくりして、私は彼の横に座り込んだ。


「どうしたの?」


「・・・うん。

 ジェヨンssiは、新しい仕事にチャレンジしたいんでしょう?

 会社に残れば、これからも今までと同じような仕事のルーティンワークしかない。

 でも、ソジンの新しい会社に行けば、多分、あらゆることをしなくてはいけなくなると思う。

 営業事務はもちろんだけれど、雑用も企画も、ひょっとしたら営業だって。

 それでも、やってみたいんでしょう?」



「・・・うん」


「・・・僕は、今さらあなたが苦労する必要はないと思っている。

 ソジンとは何度も話をした」


またまた私は驚いた。

彼と話をしたですって?

一体何を・・・。

一気に怒りモードになりそうな私をちらっと見て、彼は慌てて手を振った。


「ああ、おせっかいをしたわけじゃないよ。

 新しい会社でのあなたの役割に嘴を入れるつもりは一切ない。

 ただ、僕が納得したかった。

 わざわざ元恋人と一緒に仕事をしたいというからには

 それなりの魅力があるはずだ。

 それを知りたかった」


淡々と語る彼の横に座って、私は怒りが沈むと同時に、内心冷や汗をかく。


・・・ごめん、ジョンファ。

実は私はそこまで考えてない。

あの時は、そうだ、ジョンファを諦めなくてはいけないのなら

一人で生きていくために新しい自分が欲しかったんだ。

何しろ、今の会社を辞めてソジンと一緒に仕事をするって決断をするまで

ほんの数十分だったような・・・。

その決心のたった数時間あと、私はジョンファの腕の中にいた。

よくよく考えてみれば、

彼と別れる必要はないのだから今の会社を辞める理由もないのだ。

ソジンだって、「俺はいいよ」と、私を突き放した。

私はそのまま自分を主張することもなく

辞めるとも辞めないとも態度を保留にしたまま2週間が過ぎてしまった。

私自身、決心はついていない。

ジョンファが傍らにいてくれる今、ぬるま湯に浸かったままでもかまわない・・・。



「ジェヨンssi。やってみたら?」


「どうしたの、ジョンファ」


「あなたは言ったでしょ、私の人生だって」


・・・あれは、売り言葉に買い言葉で・・・なんて

言っちゃまずいよね、このシチュエーションじゃ。


「年齢的に躊躇するには、ちょっと遅いくらいかもしれないし」


なんだと!


「僕が足枷になるなんて言われちゃ、僕だって不本意だし」


誰もそんなこと言わないって!


「ソジンなら・・・、認める、あなたの実力を発揮させてくれるだろう」


嫉妬はどうした、嫉妬は!


「あなたがやりたいのなら、止めない」


「・・・」


「ただ、かなりしんどいと思う。

今までは、一応大手と呼ばれる

会社のネームバリューで何かと優遇してもらった。

でも、これからはそうは行かない。

マイナスからスタートすることになるんだから、

軌道に乗るまではかなり大変だと思う。

業界もそろそろ飽和状態だしね。

その点は、何度もソジンに確認した。

でも、彼は、ジェヨンssi なら大丈夫だと保証してくれた。

というより、そういう状況だからこそ、あなたが抜けてしまうのは痛いと」


「でも・・・、私は彼のプランに最初っから入っていたわけじゃないわ」


ささやかに反論。

でも、ジョンファはそんな私の抵抗なんか、ひらッと片手で払ってくれる。


「ジェヨンssi。イベント屋の営業に一番必要なものって何か知ってる?」


「え?」


「どんな状況においても瞬時に的確な判断ができる瞬発力だよ。

 ソジンは、あなたが新会社に参加すると口走った瞬間に、新会社の成功を確信したんだ。

 新しいプランも生まれた。

 ところが、一夜明けてみれば、あなたはまた僕と一緒にいた。

 ソジンは落胆した」


「落胆・・・って、彼は・・・」



「『いい』って言うしかないだろ、彼の立場からすれば。

 僕だって、あなたが彼と一緒に仕事するなんて簡単に認められるはずないし。

 ソジンが言ってた。

 5年前と一緒だってね。

 また僕はジェヨンに振られたって」


5年前と一緒って・・・。


「ジェヨンssi。遅刻するよ」


ひらりと口調を変えて、ジョンファが注意を促してくれる。

わっと、私は腕時計を見てとび上がった。


「いってらっしゃい。気をつけて。

 ただし、ジェヨンssi。

 あと1週間は会うのは我慢して欲しい。

 いくら僕だって、また抜け出してくるのは不可能だよ」


合鍵を嬉しそうに振りながら、ジョンファは私を送り出してくれた。

私は駅まで小走りに駆けながら

「退職願」が入れっぱなしになっているバッグを手で押さえた。

私にこの1枚の紙切れを出す勇気があるだろうか?

2週間前ならあった。

でも、今は?



決心がつかないまま、私は会社へと急いだ。













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