彼のいない毎日。
私は一人の部屋に帰ることができない。
たった2日、一緒に過ごしただけだというのに、彼のいない部屋のわびしさが怖かった。
一人寝の寂しさをこれほど感じてしまうとは・・・。
意味もない残業を重ね、ぐずぐずと会社に居座り、街中をぶらぶらしてウィンドウショッピングで気を紛らせ、私は一人の部屋に帰る時間をできるだけ引き伸ばした。
チェミンや他の同僚を誘って夕食を一緒にとったり、ちょっとだけお酒を飲んだり、でも、いつかは一人の部屋に帰るしかない。
ソジンからはちょっと意味ありげに誘われたけれども、こちらは首を振って断った。
あれ以来、ソジンとも新会社について話したことはない。
後ろめたさを覚えながら、けれど、私は意識的にソジンと話し合うことを避けていた。

ただ、寂しかった。
自分で自分を驚くほどに。
毎晩彼からメールは入るけれど、でも、それだけではもう私の寂しさを埋めることなんかできなくなっていた。
私たちにとっての週末も、リゾートホテルの宣伝部と一緒に仕事をしている彼にとっては休日にはならない。
だから、邪魔をしないためにも遊びに行くこともできやしない。
やっと2週間が過ぎたとき、私は、何でもいい、ジョンファにつながっていたくて、「ら・びあん」に足を向けた。
雪だるまは、例によって温かな微笑で私を迎えてくれた。

「ジョンファはずっと東海?」

「ええ。3週間、行ったっきり」

「それは寂しいでしょう」

雪だるまは、優しげに笑いながらそう言う。
多分、私の顔に書いてあるのよね、寂しいって。
私がオーダーしないのに、雪だるまはミルフイユをテーブルの上に置く。

「クージュ・ド・ブランシュ。
春の新作です。
ジェヨンssiはミルフイユしか食べないから、いつも一緒じゃ飽きちゃうでしょ」

私の目に前に置かれたミルフイユは、イチゴとブルーベリー、メロンがティアラのようにきらびやかにデコレートされ、見ているだけで満足してしまいそうなケーキだった。

「これ、ミルフイユなの?」

「特別製の真っ白なカスタードクリームとキャラメルクリームを交互に重ねたミルフイユです。
どうぞ、味見してみてください」

きらびやかなウィンドウケースの前では、数人のお客さんがまだケーキを選んでいたけれど、
closeまであと30分というこの時間、ティールームには私しかいない。
雪だるまは一人で現れた私に同情してくれたのか、私の前に座り込んだ。
私はそんな雪だるまの前でフォークとナイフを手に取ると、その宝石箱のようなミルフイユにナイフを入れた。
相変わらず繊細なフィユタージュがほろほろと零れる。
フルーツやクリームと一緒にそのかけらを口に入れると、舌の上でふわりと優しい香りが蕩けた。

「・・・おいしい・・・」

ため息のような私の言葉に、彼は丸くて小さな目を顔の中に埋めるようにして微笑んだ。

「元気、出ました?」

「はい」

「では、いいコロンビアの豆が届きました。
このミルフイユに合わせるには、ちょっと香りが深いかもしれないけれど、いかがです?」

「はい、いただきます」

すぐに彼は席を立つと、間もなくかわいい小花模様のカップを運んできてくれた。
芳醇な、けれどどこかクールな香り。

「コロンビア・スプレモです。どうぞ」

そしてまた私の前に座ってくれる。
私はゆっくりとコーヒーを味わうと、ほっと肩の力を抜いて雪だるまに向き合った。
彼はあいかわらず温かな目で私を見ていてくれる。
ジョンファの親友にしては、かなり穏やかな性格なのだろうと思う。
彼はその容貌にふさわしい深い声で、ジョンファの大学生時代の思い出話なんかを差しさわりがない程度に話してくれた。
謙虚で分別ある態度は私を安心させてくれる。
ふと・・・、私は、思いついたことを口にする。

「ねぇ・・・、あのね」

「はい」

「ジョンファは・・・、その、こちらに私以外の女性を連れてきたことって、ないの?」

雪だるまは、ふっと髭の口元を緩めた。
目元が、おやおやと言っている。
寂しさのあまり、心の内をさらけ出しすぎたかなと、ちょっぴり後悔するけれど、でも、いいや今夜は。

「安心してください。ここをオープンして1年半。
彼が連れてきた女性は、ジェヨンssiだけです」

年下の男性に気持ちを見透かされた気恥ずかしさはあるけれど、ちょっと安心してしまう私。

「だけど・・・」

「え?」

「僕が以前修行していたお店には、何人か連れてきたことがあったかな」

あ、やっぱり・・・。

「でも、みんな1回きりでした。
彼はとても如才なくて、一緒にいた女性たちはとても楽しそうだったけれど、でも、彼は同じ女性と二度と来なかった。
ジェヨンssiだけですよ、あいつが本当に嬉しげに、そうだな、まだ一人身の僕に見せびらかすみたいに連れてくるのは」

からかうように言われて、私は自分の頬が少しだけ熱くなるのを感じる。
年下の男にからかわれて赤くなるなんて・・・。

「あいつはね、ここをオープンしてから、一人で時々来てくれました。
今、あなたが座っている席に座って、ぼんやりと外を見ているんです。
まるで招き猫でしたね、あいつは」

「は?」
招き・・猫ぉ?

「外を行く人がね、もちろん、女性ですよ。
一人で物憂げに外を眺めている彼を見て、まるで誘われたように、ふらふらっと店に入ってきちゃうんです。
もちろん、年齢問わず」

ああ、よく分かる。
そういえば、私だってここで思ったじゃないか。
秋の陽射しの中で、外を眺めていた彼の顔。
そこだけ純粋な光を集めたように輝いていたっけ。
めがねの奥の目を心持ち伏し目がちにして、豊かなふくらみを持つまぶたにくっきりと奥二重のラインを浮かび上がらせて。
口元にほんの少し、甘いエッセンスをたらしたように微笑を浮かべて。
大きめな手にあごを載せているから、
きれいなあごのラインが見えなくて惜しいな・・・なんて思ったりして・・・。
何を見ているんだろう、どこを見ているんだろう、私を見て欲しいのに。
女性ならみんなそう思うだろう、彼のそんな視線を見てしまったら。

「僕はあいつによく言ったものです。
バイト代を出すから、休日は1日ここで座っていてくれってネ」

「・・・僕のバイト代、この店ごときで払えるかって言ったでしょ」

「当たり!」

あははは、と、雪だるまは大きな声で笑ってくれた。
ジョンファはいい友達に恵まれているなとつくづく思う。
私はまた一つ息を吐くと、コーヒーを口に運んだ。
重い息ではない。
雪だるまと一緒に彼のことを話し、一つ息を吐くたびに、少しずつ寂しさが薄れてゆく。
そんな感覚初めてだった。
多分、もう閉店時間を過ぎている。
だって、ケーキケースのコーナーはもう照明が落ちている。
雪だるま以外のスタッフは、バックルームへと引っ込んでしまっている。
でも、彼は黙って私の前にいてくれた。

「もしよろしければ、ミルフイユ、もう一つ召し上がりますか?」

「あの・・・」

「はい」

「あのね、私がミルフイユしか食べないんじゃないのよ。
ジョンファがミルフイユを勝手に頼んじゃうんだもの」

おいしいミルフイユを前に、私はそばにいてくれないジョンファへの恨み言をつい口にしてしまう。
どんなに拗ねても、雪だるまなら笑って許してくれるだろうという甘えもある。

「ジェヨンssi」

「はい」

「まだジョンファから聞いてないんですか?」

「え?」

問い返した私の顔を雪だるまは、まじまじと覗き込んでいる。
それから納得したように、「ああ」と、うなずいた。
何が、ああ・・・なんだ?

「ジェヨンssi。
ジョンファはね、ああ見えてもかなりシャイな男なんです」

・・・信じられるか。
でも、私は神妙な顔をしてうなずいた。
大学時代から10年以上も親友同士の彼が言うんだもの。
嘘ではあるまい。
ただし、女性の思う「シャイ」と、男性のそれではかなり違うことを私は知っているが。

「あいつのミルフイユ伝説って、僕たち友人の間ではかなり有名なんです」

「ミルフイユ伝説?」

雪だるまはうなずく。
マイマグカップの中のコーヒーをひとくち口に含むと、ちょっとだけ髭をいじってもったいぶってみせる。
「あいつは大学入学してすぐの合コンの二次会で、カフェに入ったわけです。
そこで一緒になった一人の女の子が、たまたまミルフイユを頼んだ。
ふわんふわんの猫ッ毛のキュートな女の子だったな。
で、彼女は、ミルフイユを頼んだのはいいけれど、さすがにあいつの前でしょ、食べるのはやっぱり躊躇したみたいで。
一応ね、ナイフで切り分けたんだけれど、あとは考え込んでいた。
僕たちは興味津々でしたね、彼女があいつの前でどうやって食べるのかと。
そしたら、彼女は、かわいい指でそのかけらをつまんで、エイヤッて口に入れた。
そのとき、ちらっとあいつを見たんです。
その目の動きと思い切って開けた口が愛らしかったって、あいつ・・・」

私はうなずいた。
いかにもひねくれものの彼らしい。

「それ以来ですよ、あいつは気になる女の子には必ずミルフイユをご馳走するんです。
女の子たちはいい迷惑だと思うけれど、でも、僕たちはあいつがGFと一緒にカフェに入っていくのを見るたびに、隠れてあとをつけて行ったものです。
もし、あいつがミルフイユを頼んだら、今度の女の子とは本気だなって」

あ・・・っと、私は、手にしていたカップを取り落としそうになる。

「あいつはね、本気になった女性にしかミルフイユをオーダーしません」

きっぱりと彼は言う。
本気・・・、本気って、そんなこと、今さらあなたに言われなくても分かっているもん!
・・・と、言おうとして、でも私の喉の奥で、言葉が詰まる。

「僕は、あいつと10年以上付き合っている。
でも、ここ数年、あいつがミルフイユをオーダーしたのを見たことがない。
一緒にいる女の子が自分から進んで注文しようとしたら、なんだかンだと横槍入れて阻止する。
変なヤツでしょう?
でも、去年の秋、初めてあなたとここへ来たとき、あいつは何の躊躇もしないでミルフイユをオーダーしたでしょ?
僕は厨房でケーキ焼いていて、あいつが来たこと知らなかったんだけれど、あとからその話を聞いてひっくり返るほど驚いた。
あいつは、ずっと以前から、クリスマス・イブには大好きな女性を連れて行くからって言っていた。
そして、連れてきたのがあなただったんだ」

「違う・・・、それは違うわ。
あの人がクリスマス・イブにここへ連れてきたかったのは・・・」

「・・・予約の電話をもらったときに、お義姉さんのことは諦めたんだって言ってました。
諦めるしかないじゃないかって。
多分・・・、多分、あいつは最初から諦めていたのかもしれない。
何しろ、直接お義姉さんにアプローチできずに、甥っ子ばっかりかわいがっていたんだから」

どこか哀れむように彼は言う。
ジョンファの心の軌跡を一番知っていたのはこの男だろう。
報われない想いを抱いたままに過ごした年月、雪だるまはジョンファを見守っていたのだ。

「でも・・・」

反論しようとした私を、彼は首を振ることで遮った。

「あいつは言いました。
イブに連れて行く人をちゃんと見てくれって。
僕は、ちょっと悔しくてね。
あいつが遅刻したのをいいことに、ちょっといたずらしたくなって、
あなたにミルフイユ以外のケーキ出しましたよね。
あとからすごく怒られたんです」

あの時・・・、そう、あの時、私はジョンファの言いなりになるのが悔しくて、「イチゴがいっぱいのっているケーキ」といって、オーダーしなおしたんだ。
あとから来たジョンファは、私がミルフイユ以外のケーキを食べたと知って、ちょっとだけ怒ったっけ。
でも、あれ以来、私は他のケーキを食べたことがない。
いつも、彼が、ジョンファが勝手にミルフイユをオーダーしちゃうから・・・。

「あいつをよろしく」

雪だるまがふいに言う。
私は、まるで恐ろしいことでも宣告されたみたいに、ぎょっとして顔を上げた。

「あいつは・・・、わがままであなたを振り回しているでしょう。
でも、やっと本当に愛する人をみつけた。
長い時間がかかったけれど、あなたをみつけたんだ。
あいつを・・・、よろしくお願いします」

ほんのりと明かりのともるテーブルの上、雪だるまはその明かりよりも優しく微笑んでいる。
その笑顔がみるみるうちにぼやけてゆく。

ああ、いやだ。
どうして私、こんなに泣き虫になっちゃったんだろう?
ジョンファを想うと、寂しくて嬉しくて、彼の友人から優しいことを言われただけでこんなに泣けて・・・。
慌ててバッグからハンカチを出そうとした私の目の前に、雪だるまがティッシュの箱を差し出してくれた。
オフホワイト地にサテンリボンで繊細な花の刺繍が施されたカバーがかかっている。
私は恥ずかしくて急いでティッシュを引き抜いた。

「きれいな刺繍」

照れくささをごまかすために、つい早口で言ってしまう。

「かわいいでしょう。あいつのプレゼントです。
このくらい繊細なケーキを作れよっていう励まし・・・、脅しかな?
あいつのことだから誰か女の子に選んでもらったのかと思ったら、『僕が自分で探したんだ』って言ってました。
あいつは図々しくて本心をなかなか見せないけれど、とてもシャイで繊細だ。
ま、ついでに甘えん坊だし。
何しろ、両親プラスお兄さんに甘やかされた次男坊だ。
大変だろうけれど、ジェヨンssi、あなたなら大丈夫。
あいつを幸せにしてやってください」


雪だるまに見送られて店を出たのはもう9時を過ぎたころだった。
「送っていかないとジョンファに怒られそうだけれど・・・」と彼は言ったが、明日の仕込みをしなくてはならないことは私にも分かっていた。
彼に感謝しながら、私は地下鉄へと歩いた。
メインストリートにはまだ賑やかなイルミネーションが輝いている。
帰りを急いでいるサラリーマンに混じって、仲のいい恋人同士が幾組も私の傍らを歩いてゆく。
私は春の夜の生暖かい風を胸いっぱいに吸い込みながら、携帯電話を開いた。

メモリーナンバー1。

「何? ジェヨンssi」

彼のベルベットボイスが私の耳元でささやく。

「ジョンファ」

「どうしたの? さっき送ったメール読んだ?」

「ううん、まだ」

「部屋じゃないんだね、なんだかざわめいている」

「ジョンファ」

「何?」

「会いたい」

「・・・」

「会いたい」

「・・・僕だってジェヨンssiに会いたいけど」

「会いたい」

「・・・あのね」

「会いたい」

「わがままなんだから」

「だって・・・、会いたいんだもん」

「無茶言わないでよ。あと1週間で帰れるから」

「・・・うん」

つい弱々しい返事になるのは致し方ないじゃないか。

「ジェヨンssi」

「うん?」

「おやすみなさい」

「ジョンファ」

「何?」

「早く帰ってきてね」

「・・・うん」

パタン・・・と携帯電話を閉じると、私は一つ大きく息を吐いて空を見上げた。
こんなんじゃ、あと10ヶ月も耐えられるだろうか?
たった一月前までは、彼と2週間離れている生活だって何とか耐えられたのに、今は、こんなに気弱になってしまう。
まるで初恋におろおろする思春期の女の子じゃないか・・・って、そういえば、つい最近も思ったな。
馬鹿みたい。
でも、うつむいたら涙がこぼれてしまう。
私ってこんなに弱かったかな・・・。
ぶつぶつとつぶやきながら、私はいつも彼と一緒に歩いた街を、一人でとぼとぼと歩いていた。





夜中、眠れないままにジョンファからもらったメールを幾度も読み返す。
ベッドサイドのほのかな闇の中に、携帯電話のディスプレイが青白く浮かび上がっている。
そこに連なるジョンファの言葉。

―――こっちは若葉の色が濃いよ。もうすぐ初夏だね。
     仕事は順調だけれど、現場監督が気まぐれで困ってる。

―――今日は少し海が荒れていた。
     僕のホテルまで時々潮騒が聞こえるんだ。
     ジェヨンssi、今度の週末にはこっちにおいでよ。一緒に海を見よう。

―――今日は僕のいるホテルで結婚式が二組。
     今回のターゲットは若い層だから参考になることも多くて、
     僕はまるで友人みたいな顔をして参列していた。
     でも、今日の新婦、どっちもジェヨンssiのほうがずっときれいだった(僕は嬉しかった)

―――ジェヨンssi。海が泣いている。
     あなたが泣いているみたいで僕は困ってしまう。一緒に眠りたい・・・。


ジョンファ・・・。
一緒にいたい。
ばっかみたい。
私は同じ言葉を何度つぶやいただろう。
外国に行っているわけじゃない。
車でたったの4時間だ。
今度の週末には、ジョンファがいやだといっても押しかけてやる!
忙しいって言われたって、押しかけてくっついていよう。
そんな他愛のないことを幾度も自分に言い聞かせ、やっと私は眠りについた。




・・・深い深い海の底に私はいる。
ジョンファが一緒に見ようといってくれた海だ。
でも、今は荒れている。
どぉんどぉんと海鳴りがしている。
私はジョンファを探しているのに、彼はどこにもいない。
高い波に翻弄され、真っ暗な海の底で、私はとても心細くて泣きながら(また私は泣いている!)彼の名前を呼んでいる。

「ジョンファ!」

自分の声で私は目が覚めた。
はっとベッドの上に起き上がり、ぎょっとドアのほうを省みた。
誰かがドアを控えめに叩いている。
とっさに時計を見ると、もう午前2時を回っている。
私はおそるおそるベッドから離れると、ドアの前に立った。

「・・・誰?」

「・・・こんな時間に僕以外の男が尋ねてくるというのなら、このまま帰るけれど?」

ドア越しにひどく不機嫌な声が聞こえてきて、私はこのままベッドに引き返そうかと思った・・・のは、うそ!
私は慌ててドアを開いた。
開いたドアのすぐそばに、ジョンファが立っていた。
自慢の長髪が少し乱れて、物憂げに。

「ジョン・・・ファ?
何で・・・こんなところにいるの?」

信じられなくて、びっくりして、声が震えそうになってしまう。
そんな私を、うんざりしたように彼は見下ろしている。
それから、おもむろに前髪を掻き揚げながら面倒くさそうにつぶやいた。

「あなたが会いたいと言ったから」

・・・私・・・もう死んでもいい。




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