午後、私は午前中と同じように、周囲の沈黙という雑音に一切耳を貸さずに仕事をこなしていった。
チェミンはあいかわらずぶ〜たれているし(私のお弁当はきれいに平らげていた)
営業マンたちは、腫れ物でも触るように私に対して慇懃無礼に接してくれた。

就業時間が来ると、私の回りは潮が引くように誰もいなくなった。
常には100人はいるこのフロア。
毎日、必ず十数人は残業をしているはずだった。
信じられないことに、今日は誰も残らなかった。
本当に、たった一人広いフロアに残されて、私は驚くより唖然としてしまった。
いつもなら気軽に声をかけてくる女性社員たちも、
今日はなんとなく気まずそうに席を立った。
何よりも、常にまとわりついてくるチェミンが、真っ先に「お先に失礼します」と、つんけんしながら帰ってしまったのだから。
みんな、私に裏切られた、抜けがけされたと思ったに違いない。
同じフロアに親しい同期の女性社員はもう残っていなかったし、他のフロアにいる人間にだって、親しいがゆえに複雑な心境を思えば、こちらから電話をかけることもできやしない。
ジョンファと私の交際は、それほど衝撃的なのか。
私はひとつため息をついた。
好奇心と猜疑心と、嫉妬心なんか通り越して、ああ、そうだ、一気にジョンファの株が下がったことが感じられた。
私は文字通り一人のフロアで、残業のために書類を開いた。

「あなたって、本当に・・・」

そんなあきれ返るような言葉が頭の上から降ってきたのは、何時間後だろう?

「そうよ、仕事が好きだもん、私」

ディスプレイから視線を上げずに私は答えた。

「僕は、仕事をしているあなたが好きだよ」

「そうでしょう?」

「でも、今夜は見たくなかった」

「ジョンファこそ、直帰じゃなかったの?」

「・・・絶対に残業していると思ったから」

「・・・見たくなかったのに?」

「だってあなた、ひねくれものだから」

「君には負け・・・」

「あなたほどひねくれちゃいないよ、僕は。
好きな人は好きだ。
許せないものは許せない。
あなたの退職は認めない」

ゆっくりと私は視線を上げる。
目の前に、疲労の色を濃くしたジョンファがいる。
自分のデスクに浅く腰をかけ、体をよじって私を見下ろしている。

「・・・なぜ? ソジンと一緒じゃなかったら認めた?」

「・・・嫉妬だよ、認める。
彼は仕事を通して、僕よりもうまくあなたの能力を発揮させた。
嫉妬してなぜ悪い?
その上、あなたは僕の恋人なのに、元の恋人である彼と新しく仕事をするという。
それを許せるほど、僕は寛容じゃない」

「・・・でも、もうこの会社にはいられないわ」

「いつかは辞める日が来るでしょう?
その日まで、ここでお局様やっていればいいじゃないか」

男ってどうして同じことを言うのだろう?

「ジョンファ・・・。
あなた、今日1日で一気に株が下落。
完全なバブル崩壊」

「はい?」

「あなたが選んだのは、営業1課のお局様。
5年前にソジンを振ったくせに、彼が会社に戻ってきたら尻尾を振るようにして一緒のチームで仕事を始めた。挙句には一緒に会社を辞めようとしている。
私の斜め前には8ヶ月前に私を振った男がいる。
その男よりもずうっと仕事もできて、カッコいいあなたは、事もあろうか、その男が二股かけて捨てた女を選んだ。
一気に男を下げたわよ。
ばっかじゃないのって声が響いているわ」

「はん!
ジェヨンssi、自分で言ったじゃない、今。
バブルだって。
僕の株がどれほど高騰していたか知らないけれど、そんなものすぐはじけるもんなら、さっさとはじけちゃえばいい。
あなたや僕には関係ない」

「ジョンファ。私・・・」

「二度と自分を卑下するようなことを言ったら承知しない。
あなたが会社を辞めるのも承知しない。
それよりも帰ろう。
もう8時過ぎた」

彼は私のデスクに回りこんでくると、広げてあった書類を閉じ、ディスプレイ上に並んでいた文字を上書き保存し、さっさと電源をオフにした。
そして、ぐずぐずとまだ椅子に座り込んでいた私をひっぱりあげると、自分のまん前に立たせた。

「一時休戦。
おなかすいた。ご飯食べにいこ」

直前まで眉間に寄せていたしわをあっさりと解いて、にっこりと笑う彼は、ああ・・、本当にかわいい(って、30男に言う言葉じゃないとは思うけれど・・・)。
めがねの奥で目じりがちょっと下がって、魅力的な口がきゅっと上がって・・・。
私の胸の奥がきゅんと締め付けられる。
それだけじゃない。
彼にみつめられて、体中が熱を帯びてくる。
自分の頬が染まっていくことを自覚してしまうなんて、何年ぶりだろう?
あああ、みっともない。
33歳にもなって、男にみつめられて頬を染めるなんて。
でも、そんなこと自分の意思じゃ止められない。
ジョンファが私を優しい眼差しで見下ろしてくれる。
ただそれだけで私は今、体中の細胞が潤ってくるのを感じていた。
まるで初恋に浮かれる思春期の女の子みたいにうろたえて、ときめいて・・・。
・・・そう、私は初恋の真っ只中にいる女の子と一緒だ。
今までの「愛の想い出」なんて、そんな事実があったってことさえ簡単に否定できるほど、今、私は目の前の男に夢中だ。
「愛している」とささやかれて、ときめいたことも泣いたことも、プレゼントボックスにかけられたリボンをするすると解くよりも簡単に色あせてしまった。
あのソジンと交わした恋人同士のささやきだって、もう思い出せない。
なんということだろう。
33歳まで生きてきた全てが真っ白になって、私は今、ジョンファの前に突っ立っているなんて。

「ジェヨンssi?」

いぶかしげな彼の声に、私は、「ぁ・・・」という小さな声を上げた。
涙がこぼれてくる。
昨日の夜、散々泣いたくせに、まだ涙は溢れるほど私の中で生まれてくる。

「ジェヨンssi!」

さすがの彼も、いきなり溢れてきた私の涙に驚いたようだ。
ジョンファを驚かせることができるなんて、私もまんざらじゃないなって、
また場違いなことがちらりと頭をよぎる・・・なんてこと、言ってる場合じゃないか。

「ジョンファ・・・」

「何?どうしたの?」

「私、あなたのこと、本当に好きだわ」

私の唐突な告白に彼は優しげな目を真ん丸にしたが、でも、ためらいもしないで私を抱き寄せた。

「そんなこと言わなくても、僕は良く分かってる。
ごめん、ジェヨンssi。
今日1日、すごく緊張して仕事していたんだろ。
ごめん」

彼の胸に顔をうずめて、私はほっと息を吐いた。
ああ、そうか・・・。
自覚はしていなかったけれど、私は今日1日、すごくつらかったんだ。
誰も味方がいなくて、ソジンだって私を責めた。
ジョンファは1日帰ってこなくて、私はたった一人ぼっちだったんだ。
ソジンは私を「強い」と言ったけれど、でもそれが全てじゃない。
ジョンファは私が(しなくてもいい)残業をしている姿を見て、ぴりぴりと張り詰めていた1日をすぐに悟ってくれたのだ。
私の涙がまた溢れてくる。
温かいなと思う。
ジョンファがそばにいてくれる。
もう、それだけでいいや・・・。
ジョンファに抱き寄せられるのはこれで何回目になるのかな・・・と、私はふと思った。
私の顔は、ジョンファの胸にすっぽりと包まれている。
いつもの場所に落ち着いた・・・という安心感と共に。
ずうっと昔から、私の場所は決まっていたんだと素直に思える彼の胸。
・・・ここが会社のフロアだってこと、私はすっかり忘れてしまった。

「ジェヨンssi」

ああ、好きだな、彼にそう呼ばれるのって。
喧嘩して私を責めているときだって、どこかに甘い響きがある。
返事をすることも忘れて彼の言葉を聞いていた私を、彼はそっと自分の胸から離した。
そして、すかさず体をかしげてくちづける。
一体何が起こったのか、私が理解する前に体を起こし、またにやりと笑う。
こいつはこういう素早いキスが本当にうまい・・・と、感心してどうする!
ここは会社だぞ、ジェヨン!

「ジョンファ・・・」

「いつもそうやって素直なら、あなたもかわいいのに」

こんのぉ!
人がちょっと甘えれば、すぐに頭に乗る!
抗議しようとした私の手をさっさと握ると、彼はフロアをあとにした。
もちろん私の手を引っ張って。
私たちのフロアにはほかに人間はいなかったけれど、隣のフロアや廊下には、まだちらほら人間が残っていた。
彼らが、手を繋いで歩いてゆく(私は連行されている気分だったが)
私たちの姿を見て、あっけにとられている。
もっとも、彼らだって私たちのことは知っているはずだった。
ビジネスとプライベートをきっちりと分けるはず・・・のジョンファなのに、
こいつはやっぱりつかみどころがない。

でも・・・、私はとっても幸せだった。




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