手術室の前で私たちは呆然と座り込んでいた。

事故は突然襲ったという。

ジョンファは今日、ドンウクを伴ってクリスタライズド・ローズホテルに赴いていた。

かわいがっている後輩にあらゆる現場を経験させようというつもりだったのだろう。

自慢の薔薇園を一回りし、内装の進捗状況を見学させてもらっていたとき、

ロビーに組まれていた足場が突然大きな音とともに崩れたのだという。

幸い足場の上には工事スタッフはいなかったのだが、

ジョンファはドンウクをかばい、崩れた足場の直撃を受けた。

初見では、頭部の裂傷および鎖骨・肋骨の骨折、全身打撲。

折れた肋骨が内臓を傷つけている可能性も見逃せないという重傷。

万が一ヘルメットをつけていなければ即死だっただろうという診断だった。

にもかかわらず、ジョンファは痛みをこらえ、


「キム・ジェヨンssiに言い忘れたことがある。

 彼女に会えない限り、手術はいやだ」と言い張っていたらしい。

真っ先に駆けつけた両親の説得もむなしく、

無理やり手術室に運ぶ直前、私が到着したのだそうだ。



「すみません、僕のせいです」


自分も頭を負傷しながら、ドンウクが私たちに向かって頭を下げた。


「よく覚えておけ。

 上司は、後輩や部下をかばうことも仕事の一つなんだ。

 同じこと、ジョンファに言ってみろ。

 あのヒトを小馬鹿にした表情で、『ばぁ〜か』って言ってくれるよ」


悲嘆している両親の前の前で「小馬鹿」はないだろうと思いながら、私はソジンを見上げる。

軽い口調とは裏腹に、まだ彼の顔色は戻らない。

私の視線に気がついたのか、ちらっと私を見下ろすと、

「ちょっと煙草吸ってくる」と誰に言うでもなく背を向けた。

私はジョンファの母親の傍らに座ったまま彼を見送ったが、

その背中が廊下を曲がったあと、彼女に「すみません」と断って腰を上げた。


「あの方は、息子の同僚なんですか?」


「彼の先輩にあたります。

 何かと私たちをサポートしてくれる、本当に心強い味方になってくれる人です」


そう、多分、兄を亡くしたジョンファは、

彼を「ソジン」と呼ぶより「ヒョン」と呼びたいに違いない。


「あの人、2年ほど前に奥さんと子どもさんを事故で亡くしているんです。

 私・・・、自分のことで精一杯で、すっかり忘れていました。

 きっと、この場にいるのもつらいはずです、なのに・・・」


恥じ入る私の言葉に、


「・・・それはお気の毒に」


同じ痛みを知っている母親の慈しむような視線が、

ソジンが消えた廊下へと注がれ、そして私へと移される。

私はその視線に勇気付けられるようにして歩き出した。



ソジンは中庭のベンチに座り込み、暮れてゆく夕焼けを眺めていた。

いつも私を支えてくれているスーツの背中がこんなに寂しげだったなんて、

私は初めて気がついた。



「煙草は吸い終わったの」


「んなもん、2年前に止めている」


私も彼の傍らに腰を下ろした。


「あいつのことだ、すぐに元気になる」


それは私を慰める言葉というより、彼の祈りであるに違いない。

私たちは、夕焼けが最後の光を藍色の空に放ちきって沈んでしまうまで、

黙って西の空をみつめていた。

一瞬のマジックタイムは、やがて静かに夏の夜に溶ける。

彼が一つ、大きく息を吐いた。



「・・・すまないな、まさかこれほど動揺するとは思わなかった。

 俺としたことが取り乱しっぱなしだ」



「・・・ううん。ごめんなさい。

 つらいことを思い出させてしまったわ」



「・・・デジャヴってのは厄介だな。

 だが・・・、ジョンファには申し訳ないが、

 おかげであのときの気持ちを鮮明に思い出した。

 ここのところ自分の忙しさに取り紛れて、

 忘れてしまうことも多かった。

 ラボックの資金だって、

 妻と子どもの命と引き換えに得た保険金から出ているというのに・・・」


彼の苦い言葉を、私はつらい痛みとともに聞く。


知らなかった。

ソジンはそんなこと一言も言わないから。



「お前の気持ちはよく分かる。

 お前こそ、よく耐えていると感心してるんだ。

 もう、彼のそばに戻れ。

 俺ももう少ししたら行くよ。

 ・・・ドンウクも鍛えなおす必要があるしなって、

 ・・・俺のせりふじゃないか。

 でも、まずは連れて帰らなくちゃ」


「うん」


私はベンチから立ち上がった。

そんな私を彼は見守るように見上げてくれる。

夏の冷たい光を放つ月の下で、彼の精悍な顔がさらに鋭さを増している。


私は5年前、こんないい男を簡単に振っちゃったんだと今さらながらに実感する。

チェミンに「いけず」と連発されるはずだ。

私は今、ソジンとジョンファという飛び切り上質な

男性二人と一緒にいられるという恵まれすぎた環境にいる。

今回の事故は、そんな私に対する神様の警告だ。

でも、私は思う。

何があっても、私はもう大切なものを手放したりしない。


ジョンファ。

私はあなたのそばにいる。













「ちょっと時間はかかりそうですが、

 患者さんは若いし、よく鍛えた体をしている。

 すぐに回復されますよ」


という先生の言葉と一緒に、ジョンファは私たちのところへ戻ってきた。


鎖骨を骨折しているので、まるでアメリカンフットボールのプロテクターのようなギブスを纏って

手術室から出てきたが、したたかに打った頭も

今のところ不安要因はないということで、私たちを安心させた。

治療のために自慢の髪の毛をざっくりと切られてしまったことにさえ気付かずに、彼は眠っている。



「間もなく麻酔から醒めます。

 少し痛がられるかもしれませんが、もう心配はいりませんよ」



ナースの心強い言葉に安心して、ソジンはドンウクを促して帰っていった。


私は両親と共に彼のベッドサイドに座り、彼が麻酔から醒めるのを待っていた。

ICUに運ばれてきたときはまだ人工呼吸器も装着されていたが、

今はそれもはずされて、彼は穏やかな呼吸を繰り返している。


時々、眉をしかめるのは痛いからかな・・・と、

心配になり、私は思わず体を乗り出して彼の顔を覗き込む。

ベッドをはさんで向かい側に座っている両親の視線を遠慮がちに伺いながら、

点滴の針が刺さっている手をそっと握った。


力なく投げ出されている彼の手を両手で包み込むと、

あらためてその大らかさにほっとして、また涙が滲んできた。


彼の父親が、ふっと微笑んだことを周囲の空気が震えたことで悟る。


そのとき、


「・・・してる」


ジョンファの眉がまたしかめられると、唇がかすかに動いた。


「ジョンファ?」



「・・・愛してる・・・、ジェヨンssi・・・」



思いもかけない言葉に、私は自分の耳を疑った。

彼の目はまだ閉じられているが、まぶたが震えている。



「あら・・・」と、ほほえましそうな声を上げたのは、たまたま点滴を調節していた若い看護士だった。

そして、彼の手を握ったまますがるように見上げた私の顔を見て、にっこりと微笑む。


「お名前を呼びかけてみてください。もう目が醒めます。

 よかったですね。もう大丈夫ですよ」


彼女の言葉に励まされて、私は彼の両親を見た。

二人は少しだけお互いに顔を見合わせると、父親が私に向かってうなずいた。

母親はちょっと不満そうだったが、けれど、今、

覚酔する前の朦朧とした意識の中でつぶやいた彼の言葉を聞いてしまっている。

仕方ないと悟ったのか、私に譲ってくれた。

私はもう少し体を乗り出すと、「ジョンファ?」と彼の耳元でささやく。


ゆっくりと彼のまぶたが動いた。

一度、大きく見開かれ、そして、何度か物憂げに瞬きして、

あのかわいらしいぼんやりとした眼差しになる。

しばらくぼやっと白い天井を見ていたが、やがて顔をしかめながら頭を動かして私を認めた。

そして、何とか微笑もうとして、また眉を寄せる。



「ジェヨンssi。待ってたのに・・・」


「うん。ごめんね、遅くなって」


ジョンファの意識はまだ手術前のままのようだった。


「・・・体中が痛い」


「当然でしょう、何本も骨が折れたんだもの」


「骨・・・折れたのか・・・。あいつは?」


「ドンウクは大丈夫。さっき、ソジンと一緒に帰ったわ。

 おでこを切っていたけれど、明日、念のための検査するんですって」


「・・・ふうん」


まだ意識が中途半端にしか戻っていないのか、

ジョンファの言葉はどこかうつろな響きがある。


けれど、あいかわらずとぼけたキャラは目覚めつつあった。

またゆっくりと天井を見上げ、今度は両親のほうを向いた。


「ああ・・・、父さん、母さん、ごめん」


「ごめんじゃすまんだろう」


「だって、この状況じゃ、それ以上言いようがない」


父親に対して、どこか拗ねるように言うと、今度は母親に視線を移す。



「ごめんね、母さん」


母親は何か言おうと口を開きかけたが、その前に涙が零れていった。


「うわ・・・、母さん泣かせると父さんに怒られる」


マジにうろたえるジョンファをうんざりと見て、彼女は涙をきりっと拭いた。



「あなたには心配ばかりさせられる。

 もう、私は疲れたからジェヨンssiに任せるわよ、全部」



私の手の中にあった彼の指が、きゅっと私の手を握った。

私も握り返す。

視線は母親に当てられたままだが、ジョンファの朗らかな言葉が私には聞こえてくる。


ほら、大丈夫だったでしょ・・・と。

もっとも、これはケガの功名よね。

私は彼の母を見て、それから父親を見上げた。

母親は、「仕方ないわよ」という表情でぷいと横を向いたし、

父親は妻の気持ちも分かるし・・・と、苦笑をこらえている。

けれど、ジョンファが無事意識を取り戻したことで二人とも肩の力を抜いたことが分かる。

母親の肩に置かれた父親の手が、そっと妻を抱き寄せるのを、

私はとてもとても優しい気持ちで見ることができた。


間もなく現れた医者が簡単な診察をして、両親にうなずいて見せた。

それを確認して、看護士の「もう少し眠りましょうか」という言葉に

ジョンファは少し抵抗を見せたが、私たちはよってたかって

「眠りなさい!」と強制的に催眠剤を処方してもらった。


彼は苦笑していたが、痛みも手伝ってか、

私たちに逆らう気力はさすがに沸かなかったのだろう。

眠ることにうなずいた。


あっけなく目を閉じて寝息をたて始めた傷だらけの顔をみつめて、

私はあらためて息を吐く。



「キム・ジェヨンssi」


顔を上げると、彼の母親が私を見下ろしていた。









明かりの落とされたフロント前の待合ロビーは閑散としていた。

既に夜間診療の時間も過ぎていたのだと、あらためて私は自分の腕時計を確認した。

ソジンに引っ張られてここへ来たのは午後5時ごろだったから、もう6時間以上たっている。

ビニールレザー張りのソファに先に腰を下ろし、彼の母親は疲れたような微笑を見せた。



「お疲れになったでしょう」


私の言葉に、彼女はそっと首を振る。

シニョンにまとめあげられていた髪の毛から、後れ毛がうなじにはらりと落ちた。


「ジェヨンssiこそ」


母親から労わるように言われて、私は初めて自分がまだ緊張していることに気付く。

私は思わず彼女の横に座り込んだ。


「先ほど夫が申しましたけれど、

 まさかこんな形であなたとお会いすることになるとは思ってもみませんでした」


「・・・はい」


「あの子とは同じ会社でいらっしゃったのよね」


「はい。今は、先ほど付き添ってくれていたソジンssiの会社で働いています」


「・・・あの方ともお親しそうですね」


先ほどソジンの背中を優しげな視線で見ていた人の言葉が

少しだけ非難めいて聞こえたのは、私に後ろめたさが残っているからか?

もっとも、あのジョンファの母親だ。

どんな状況にあっても皮肉の一つや二つ、

ため息が出るほど美しいこの顔で澄まして言ってのけることだろう。



「あの子は、私たちにもなかなか本心を見せません。

 4年ほど前に長男を亡くしてから、

 余計に彼は自分の気持ちを韜晦するようになりました」


返事をしなかった私にかまわずに、彼女は話し続ける。

私は小さくうなずいた。


「あの子が・・・、義理の姉を慕っていたのはお聞きになっていますかしら?」


「はい」


「・・・私達が知人の娘さんとの縁談を進めようとしていたことも?」


「はい」


母親は自分から言い出したくせに、私のためらいもない返事に、くっきりと美しい目を少しだけ細めた。

そして、すぐにそんな自分を恥じたようだった。


なかなか親にも本心を見せない二男が、

そこまで私に打ち明けていたのかと、少しだけ悔しいのだろう。

この親子は本当によく似ている。

状況が違えば、多分私は苦笑してしまったことだろう。



「本当にあのひねくれた息子と結婚なさりたいんですか?」


おいおい、あなたが育て上げた息子だぞ。

この人もストレートな愛情表現をあえてしない人間なのだと、早くも私は悟ってしまう。

かなりジョンファに鍛えられたといっていいだろう。

単純明快なうちの両親は、

この母親と付き合うためにかなり苦労するだろうと今から私は危惧してしまう。


けれど、私は、はっきりと応えた。


「はい」と。


彼女は哀れむように私を見る。


「お守りは大変よ」


「覚悟しています」


彼女の息子に対して、かなり失礼なことを言ってしまったという自覚はあったが、

この女性に対しておもねる答えは必要ないと私は判断していた。

案の定、彼女は私の返事を聞くと、大きな目の中にジョンファと同じような光を見せた。

つまり、あの、いたずらっ子の光・・・だ。

そして、私をまじまじと見つめる。

本当にきれいな人だと、私は立場も忘れて彼女をみつめ返した。

大きな目は生き生きとしているし、

今、少しだけ細めた目じりに年齢相応の深いしわは刻まれるが、

なんと魅力的なしわだろうかと見とれてしまう。

ジョンファそっくりなやや大きめな口も、細いあごのうえで絶妙なバランスを形作っていた。

その唇が、ふっと割れると、真っ白い歯が仄見えた。

そして、とてもとても朗らかな笑い声が漏れる。

まるで無垢な少女のような無邪気な笑い声だ。


「あなた、面白いわ」


「は?」


「ジョンファが好きになるはずね。

 私たちも仲良くできそうだし、安心しました」


「はぁ・・・」


「お仕事が好きだそうですね」


「はい・・・」


「じゃぁ、結婚しても同居はいやよ」


「はい?」


「若夫婦のためにおさんどんをするのはいやだと言っているの。

 ただし、子どもが生まれたら私がフォローするから、お仕事を存分になさい」


「ちょっと待ってください」というタイミングさえつかませず、彼女は畳み掛ける。

まったく・・・、本当にジョンファにふさわしい母親だ。

私の両親のみならず、

私だってこの人と義理の親子をやっていけるんだろうかと、少々自信がなくなった。


ジョンファ・・・。

早く目を覚ましてよ・・・。

私の心の中のぼやきが聞こえたのか、



「あの子、今夜は、もう目を覚まさないでしょう。

 お帰りになっても結構ですよ」


「あ、いえ。お母様たちこそお疲れでしょう。

 私が付き添っていますから、今夜はお戻りになってくだ・・・」


「まだ婚約もしてないわ」


ぴしゃりといわれて、私はきゅっと背筋が伸びた。

硬軟を自在に使い分けるところなど、本当にジョンファとよく似ている。

結局、私は彼の母親に面白いように翻弄されて、すごすごとICUに戻った。

父親に見守られて、ジョンファはぐっすりと眠っていた。

見慣れている彼の寝顔なのに、今日はとても切ない。

まだ顔色は戻らないけれど痛みは少しは楽になったのか、

目元がゆったりとしているのを見て私も少しだけ心が楽になる。

母親のあとについて戻ってきた私の表情を見て、彼の父親は口元を緩めた。

多分、自分の妻を誰よりも知っているのだろう(当然だが)。



「明日もお仕事でしょう。

 この人がついていますから、私たちは帰りましょう」



父親に促されて、私は未練がましく彼の寝顔を振り返りながらICUを後にした。

時計は既に午前0時になろうとしている。

私は彼の父親の車で送ってもらうことにした。



「不幸中の幸いでした。少々時間はかかりそうだが」


「はい」


「あなたにも面倒をかけてしまうが」


「いいえ。私にできることがあれば何でもさせていただきます」


ジョンファによれば小さな旅行代理店を経営しているという父親は、

ひどく落ち着いたしゃべり方をする人だった。

私の少々気負ったような言葉に、少しだけ含み笑いを漏らした。



「家内はあなたに失礼なことは言いませんでしたか?」


「いいえ」


ちょっと返事が早すぎたかしら?

心配するまでもなく、父親は私の気持ちが分かったのだろう。

またふっと口元を緩める。

ジョンファの笑い方は父親譲りなのだと、私は気付く。


「・・・私たちは以前、長男を失っています」


「存じています」


「・・・今日、ジョンファの事故の連絡が入ったとき、家内は気を失いました」


「・・・」


「私たちに残されたたった一人の息子です。

 孫も手放して、私たちに残されているのはあの・・・少々とぼけた男だけです」


ここで笑っちゃっていいのかどうか、私は少しだけ躊躇した。

それからすぐに、そんな自分の不謹慎な感情の動きに唖然とする。

ジョンファは重症だというのに、私はもちろん、父親も母親も、

先ほどからどこかタガが外れたような部分がある。

私たちは気が狂うほどの不安に駆られた分、命に別状はないと知り、

その反動で少々テンションが高くなっているのだということに今さらながらに気がついた。

それほどにジョンファの怪我は私たちを恐怖に陥れたのだ。

悲しみとか苦痛を超えたところにある恐怖。

彼を失っては生きていけないほどの、

死と天秤にかけられるほど凄まじいまでの恐れだ。


「私・・・」


対向車のヘッドライトに眩しく照らされては暗闇に引きずりこまれる繰り返しの中で、私は口を開いた。


「ジョンファssiを、大切にします」


「よろしくお願いします」


父親はそれ以上口を開かなかった。


私たちはお互いの沈黙の中に痛いほどの愛を感じあいながら、

今も眠り続けるジョンファへと想いを馳せていた。










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