タクシーがどれだけ走ったのかさえ分からないほど、私は動転していたらしい。

気がつけば、ソジンに支えられて白い廊下を走っていた。

ソジンが私を抱えて飛び込んだのは救急センターと書かれた一室だった。

幾つか並んだベッドの半分ほどが埋まり、白衣を着た看護士や医者が忙しく立ち働いていた。

「いて〜」だの、「ああ、動かないでくださいね〜」なんて声が、

ぼおっとした頭のどこか遠くで響いている。


「ジェヨン!」


ソジンが大きな声で耳元で私の名前を呼んだ。

はっとして一番奥のベッドを見ると、

見覚えのある男が頭に真っ白い包帯を巻いて呆然と立っている。


「ドンウク!」


ソジンの声に、青い顔をしていた彼が、ぎょっとこちらを見た。

その傍らの50代とおぼしき上品な夫婦も視線を上げる。

ソジンに引っ張られるようにして駆け寄ったベッドでは、

若い看護士が覆いかぶさるようにして横たわっている男の頭の血をぬぐっていた。


「ジョンファ!」


私が呼ぶより先に、珍しくうろたえたソジンが彼を呼んだ。

気を利かせた看護士がすっと体を引くと、

ジョンファがうっすらと目を開く。私は足から力が抜けてしまい、思わずベッドに手をついた。


「ああ・・・、遅いよ、ジェヨンssi」


自慢のロングヘアに血をこびりつかせて、ジョンファが力ない声で文句を言った。

眉の上に当てられた大きなガーゼが血で染まっているのを見て、また私の顔から血が引く。


「ジョンファ」


「・・・ジェヨンssi。ねぇ、僕は、あなたに言いたいことが・・・」


薄い毛布の上に投げ出されていた手が、私の手を捜す。

私は彼の手を片手で握ると、無意識にもう一方の手で彼の額にかかる前髪を払った。

指に血がついたことにも気がつかなかった。


「ねぇ、ジェヨンssi・・・」


苦しげな息で甘えるような彼の言葉に、私は何も言えない。

きれいな彼の顔に大きな擦り傷が幾本も走っている。

血が滲むその傷に触れそうになって、思わず私は指を握り締める。


「キム・ジェヨンssiですか?」


突然かけられた看護士の言葉に、私は慌ててうなずいた。


「あなたが来ないと手術しないと患者さんがおっしゃっていたんです。

 すぐ手術を行いますので」


それだけを口早に告げると、看護士は背後の同僚に向かって、

「オペできます。先生に連絡して!」と叫んで足早にベッドを離れた。


「・・・ねぇ、ジェヨンssi。ずっと言わないでごめん」


「ジョンファ、ジョンファ、いいの、喋っちゃだめ」



私たちの周りにばらばらと慌しい足音が響くと、


「すみません、すぐに運びますので、下がっていただけますか!」


ジョンファの手を握っていた私の手の上に

若いナースの白い指が重ねられて、私たちを引き離そうとする。

けれど、その前に、ジョンファの指がぎゅっと私の手を握り締めた。

大きく肩を動かして息をすると痛みが襲ったのか、眉をしかめて少しだけうめいた。



「ジョンファ!」


「ジェヨンssi。黙っていてごめん。

 あなたを愛・・・」


彼がささやくように言おうとした言葉を、私は慌てて彼の唇に指で触れて遮った。


「ジョンファ!私、待っているから。

 あなた、大切な言葉はもう少し待っててって言ったでしょ?

 女はロマンティックなのよ。

 こんなところで傷だらけのあなたから言われるなんて、絶対にいやよ!

 この間の薔薇の花の下で、薔薇の花に囲まれて言って欲しい!」


必死になって言い募る私を見て、彼はまたふっと笑った。

いつもの、唇の左端をちょっとだけ上げるあの女誑しの微笑だ。

傷だらけのクセして、なんて魅力的に笑うんだろう。



「・・・ジェヨンssi。わがままなんだから」


「あなたには負けるわよ!」


思いっきり憎まれ口にきこえるように言うと、私は彼の手をまたぎゅっと握った。

彼も握り返してくれる。



「すみません」


ナースたちが私と彼を引き離す。

前のめりに倒れそうになった私をすかさずソジンが背後から抱き取ってくれた。



「ソジンssi。ジェヨンを頼む」


ベッドを囲んだ白衣の間から彼の言葉が聞こえて、

そのまま彼はドアの向こうに消えていった。




「ジェヨン」


「お願い、ソジン、私立てない」


彼の姿が消えてしまったとたん、私の体が激しく震え出した。

背後から支えていてくれたソジンが、ぐっと私を抱き寄せた。



「ソジン、どうしよう、私、どうしよう!」


「ジェヨン!しっかりしろ。

 お前がしっかりしないでどうする!」



気がつくと、私の頬はぐしゃぐしゃに濡れていた。

いつ泣き出したのか覚えていなかったが、

またジョンファに泣き顔を見せてしまっていたのかと思うと、

それだけでも情けなくて叫び出しそうになる。

ぐっと唇をかみ締めると、あの夜がよみがえってきた。


ジョンファにプロポーズされた薔薇の夜。


「結婚してください」という彼のベルベットボイス。

私たちを包み込んでいた薔薇の優しい香り。

私は誓ったじゃないか、何があってもあの夜の幸せを思い出せば、耐えられると。

私はソジンの腕の中で、ぐっと手を握ると足を踏みしめた。

激しく震えていた体がしんと静まる。

私を抱いていたソジンの腕からそっと力が抜けた。



「大丈夫か?」


「・・・うん」


ソジンが体を離すと、私の顔を覗き込む。

私は彼から渡されたハンカチで頬をぬぐうと、引き攣りながら何とか微笑んだ。



「ジェヨン?」



「ありがとう、ソジン。私、大丈夫・・・、大丈夫よ」


自分に言い聞かせるように繰り返すと、まだ眩暈はするものの何とか耐えられそうだと思う。

それよりも、手術室に運ばれた彼の、少しでもいい、近くでいたいと切実に願う。



「ソジン、彼のそばに連れて行って。お願い」


哀願する私を、彼は支えてくれる。


けれど、歩き出す前に彼は私の耳元でつぶやいた。



「その前にご挨拶したほうがいいだろう」



彼の言葉が終わる前に、背後から、


「キム・ジェヨンssiですね?」という柔らかな声が聞こえてきた。


振り返ると、青ざめながらも穏やかな空気に包まれた夫婦が立っていた。


なんてことだろう。

私はあまりに動転して、この人たちの存在をすっかり忘れてしまっていた。

紹介されなくともこの二人が誰であるか、

私は一番先に気がつかなくてはいけなかったのに。


「カン・ジョンファのご両親だ」


ソジンの言葉に、私は恥ずかしさのあまり狼狽しながらも深くうなずいた。


ジョンファのご両親は、

彼が幾度も私に語ってくれたようにとても穏やかな話し方をする人たちだった。


「こんな状況で顔合わせをするとは、なんとも言葉のしようがないが・・・」と、


ジョンファ同様上背のある父親は私を見下ろして言った。

ジョンファよりは亡くなったお兄さんのほうが父親には似ているようだった。


「お会いするのを楽しみにしておりましたのに・・・」


と、優しげな面差しの母親に先に頭を下げられて、私は慌ててしまう。


間違いなくジョンファは母親似だ。

若いころはさぞかし美人だっただろうと容易に想像ができるが、

若さの峠を越えてなお、年月がさらなる美しさを重ねてくれる女性と、私は初めて出会った。

この人の孫娘を生むことができるとすれば、私はなんという幸運に恵まれた人間だろうと思う。


「キム・ジェヨンです。

 ご挨拶が遅れてしまって申し訳ありません」


彼の両親に初めて会うときは緊張するだろうと想像していたのに、

緊張どころか、私はこれ以上ないくらいぼろぼろだ。

その上、ジョンファではない男に抱かれるようにして支えられている。

こういう状況ではなかったら、紹介される前に破談は間違いない。

彼の両親も私も、そんなこと考える余裕なんかないのは幸いだった。

大切な長男を突然の病気で奪われ、

今、たった一人残った二男を危うく事故で亡くすところだった両親は、

私以上に動転していることだろう。

しかし、彼の母親は私の傍らへ歩いてくると、

ソジンと私の間にしなやかに入り込み、さりげなく私の肩を抱いた。

ソジンも心得たもので、スッと体を引くと私を母親に預け、

自分は一番後ろに身の置き所もなく泣きそうな表情で立っているドンウクのそばに歩み寄る。


そのまま私たちは挨拶もそこそこに救急センターのドアを開くと、

先ほどジョンファが運ばれていった廊下を歩き出した。









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