会社を辞めた私は、すぐに新会社設立に動いているソジンたちと合流した。

とはいっても、彼らはもうほとんどの準備を終え、

あとは2週間後の公式発表を済ませるだけになっている。

ソジンを初めとする10人近い営業マンはもう街中を走り回っているし、

クリエイターたちも前の会社から引き継いできた仕事を滞りなく続けている。

「LABOCK(らぼっく)」と言うのが新会社の名前だった。

大小にかかわらずイベントを企画、実行するほか、広告・宣伝、SPも請け負うという。

一緒に独立したスタッフ以外にも、いままでの仕事で出会ってきた様々な人間

(中にはまったく異業種からの転向組もいたが)を引っ張り込み、

総勢20人ほどのラボックは、順調に滑り出しているようだった。

私も時々顔を出していただけに、正式な一員となった朝も、

みんなは簡単な挨拶のあとは特に関心を払うでなく、それぞれの仕事に没頭していた。

その適度な距離感が心地いい。

事務は私ともう一人の若い男性の経理スタッフが担当することになる。

なぜだか女性スタッフは私以外いなかった。


「誤解するな。

 優秀なら女性・男性問わず受け入れるよ。

 いまのところ、優秀な人材がいないというだけだ」


彼が言うことだ。

彼は決して女性をないがしろにしない(散々お前呼ばわりはするけれど)。


「ま、お前だって、子どもができたらいつまでいるかわかんないだろ。

 どこまでやってくれるか、お前の働き如何で後輩の扱いが違うからな」


おい。

それは脅迫か?

・・・実はまだ自信はないけれど、でも、ジョンファが協力してくれるもん、がんばるもん。


「・・・にしても、お前、今日は機嫌がいいな」


あら・・・、ばれた?


「察するところ、ジョンファからプロポーズでもされたか」


わぁぉ!!

私はそ知らぬふりをしたが、彼はそんな私の顔を見て、にやりと笑った。


「お前さぁ・・・すごく分かりやすくなったな」


「え?」


「いきなりまっかっかになるなんて、信じらんないよ。

 なんというか、以前のお前ならポーカーフェイスで知らん振りしていたぞ、多分。

 聞いたぞ。有名だったんだってな、

 二股かけられたときも、顔色一つ変えずに仕事を続けたって」


また古傷に触る!

けれど私は大慌て頬を両手で押さえると、ソジンを上目遣いににらみつけた。


「かわいいジョンファの魅力にはかなわないってことか。

 ま、いいよ、俺は。

 お前が幸せそうでさ。

 その調子で仕事も頼む」


ぽぉんと肩を叩き、彼はさっさと私のデスクを離れた。

パーテーションで仕切られた周囲のデスクから、

くすくす笑いが漏れているってことは、今の会話を聞いていたな、みんな。


ま、いいけれど。

幸せのおすそ分けくらいしてあげる。

そのくらい今の私は寛容なんだから。

ラボックでの私の仕事は忙しかった。

スタートしたばかりの会社にありがちな

試行錯誤の毎日は、けれど、軽い興奮にも包まれている。

毎日お祭り騒ぎのようで、

スタッフはみんな心地よい高揚感の中で少しずつリズムを作っていった。

ジョンファもあいかわらず忙しくて、二人の生活がすれ違い、会えない日も多くなっていった。

でも、必ず夜遅くにメールが入るか、電話で語り合った。


「ねぇ、ジョンファ」


「何?」


「ちゃんとご飯食べてる?」


「うん。ジェヨンssiこそ、ちゃんと食べてる?」


「もちろん。遅くなったときはソジンが奢ってくれるし。

 あ、もちろん、残業したメンバーみんなで食べるのよ。

 1対1じゃないわよ」


くすっと、形のいい唇から漏れた彼の小さな息が私の耳をくすぐる(もちろん電話越しに)。


「心配なんかしていないから、安心して。

 逆にソジンssiがあなたを見張っていてくれるから、

 僕は安心して仕事に専念できる」


「・・・いつからソジンとそんなに仲良くなったの?」


「内緒だよ。あ、それより、今度の土曜日、大丈夫だよね?」


「うん。大丈夫」



今度の土曜日。

私は彼のご両親にご挨拶することになった。

今から緊張してしまう私に、ジョンファはこともなげに言ってくれる。



「ジェヨンssiなら大丈夫。

 うちの両親も安心して僕を任せると思う」


はい?

さすがにジョンファの両親だ。

甘えんぼの二男の性格をよく知っていらっしゃる。

大体、5つ年上の義姉をずっと慕っていたような男だ。

雪だるまも言ってたっけ。

両親と年の離れたお兄さんに甘やかされて育った二男坊だと。

でも・・・今、甘えっぱなしなのは私なのよね。

ちょっぴり自信なかったりして・・・。



「ジェヨンssi。おやすみなさい」


「おやすみなさい、ジョンファ」


「ねぇ・・・」


「なぁに?」


「もう一回呼んでよ、名前を」


「・・・ジョンファ」


「・・・ジェヨンssi」


「おやすみなさい、ジョンファ」


「うん、おやすみ」


携帯電話を閉じながら、私は一つ吐息をもらす。

ささやかな会話がこれほど心震わせる。

ねぇ、ジョンファ、

もう、「愛している」って、言ってもいいのよね・・・・?






翌日も、私は仕事に追われていた。

仕事も順調に入ってくるし、私もだんだん効率的に事務処理ができるようになってきた。

考えてみるまでもなく、ラボックが扱う案件は前の会社の1課分の規模だ。

仕事が広範囲になったとはいえ仕事量はさほど多くない。

とはいえ、ほとんど私ひとりで処理するとなればやはり時間はかかる。


「大丈夫か?」


パソコンとにらめっこしている私の背後から、営業帰りのソジンが声をかける。


「ええ。いろんな仕事が入ってくるから面白いぐらいよ。

 今まで聞いたこともなかった会社の名前や企画がどんどん出てくるし、

 目からウロコってこういうことを言うのね」


「ああ・・・、前の会社じゃ、

 規模的に手を出さないような小さなところへもアプローチかけているからな」


「なんだか、ダイレクトに手応えがあるって感じね」


「小さな会社の醍醐味ってとこか」


デスクに腰掛けて私の顔を覗き込むソジンは、私の反応のほうが面白そうだ。

私は私で体中の細胞が生き生きと動き出したという実感があった。

今までは営業マンの黒子でしかなかったが、

ラボックでは常に情報がフロアを飛びかい、すべての仕事がガラス張りだ。

クライアント名はもちろん、現在進行中の企画、

それに付随するデモ特性、媒体費用、関連会社営業成績などなど、

こんなことまで必要なの?と思わず見直してしまいそうなありとあらゆるデータが、

あっという間に私のパソコンにも蓄積されていった。

今までは断片的にしか捉えられなかったイベントのディテールに至るまで、

私には描くことが可能になった。

私も何の遠慮もなく発言することができる。

私の中では、営業事務も企画も見積もりも、雑用だって同じレベルで存在していた。

すべてが大切で、すべてが楽しかった。


「お前、いい顔してるな」



「そぉ?」


嬉々としてデータを追う私に、彼はささやく。


「ジョンファと仕事と、どっちが快感?」



「ソジン!!」



思わず手元にあったファイルを振り上げたとき、彼の胸元で携帯電話が鳴り出した。

片手でファイルを防ぎながら、笑いながら携帯電話に出たソジンは、

ふたことみこと交わしたあと、たちまちいかめしい表情になって、


「何で、連絡が遅くなった!」と、いきなり怒鳴った。


相手の返事を待たずに携帯を乱暴に閉じると、

パーテーションの向こうでパソコンに向かっているデザイナーに、


「ちょっと出てくる。後は頼む!」と、口早に告げると、唐突に私の腕を取った。



「ジェヨン、自分のバッグを持て!

 お前、携帯の電源が入ってないだろう!」



大きな落ち度のようにそれだけを言うと、私をドアの外に引っ張り出す。

いきなりの行動に私が抗おうとすると、腕をつかむ指にぐっと力を入れ、

有無を言わせない勢いでエレベーターに押し込んだ。

その勢いのまま1階のボタンを押す。



「ソジン、どうしたの?」


しかし、青ざめた彼は何も言わない。

1階に着くと無言のまま私をメインストリートに引っ張り出し、

難なくタクシーを止めると、ドアが開くのももどかしく後部座席に私を放り込んだ。



「ソジン!」


私の抗議など気にも留めず、彼は運転手に向かって、


「ソウル総合病院!急いで頼む!」と、大声で告げる。


「どうしたのよ、何を急いでいるの?

 病院に何の用事があるって言うのよ!」


わけが分からず詰め寄る私を、ソジンはちらっと哀れむように見た。

しかし、彼の顔色がただならないのは見て取れた。


「ソジン?」


「ジェヨン。いいか、気を落ち着けて聞くんだぞ」


「何よ、どういうこと?」


「・・・ジョンファが怪我をした」


「怪我・・・って・・・」


「怪我だよ、怪我!

 クリスタホテルで足場が崩れて、あいつが下敷きになった」



下敷き・・・って?


ソジンの言葉を頭が理解する前に、体が先に反応した。

すうっと、冷たい感覚が頭の先から体の中を落ちてゆく。

指先まで冷たくしびれてゆくのが鮮明に自覚できる。

目の前の風景がたちまちモノクロになるのを、

私の腕に食い込んでくるソジンの指がかろうじて遮ってくれる。



「ジェヨン!しっかりしろ。

 とにかく、病院に行ってみなくちゃ詳しいことは分からないんだ。

 あいつはね、お前が来なくちゃ、手術受けないってわがまま言ってるらしい。

 まったく、なんてヤツだ!」



呆れるよりも八つ当たりするようにソジンは吐き捨てた。

その真っ青な彼の顔が私の鏡になっていることを私は知っていた。









13章へ   15章へ    街角シリーズ目次へ





























inserted by FC2 system