「ジョンファ!」 と、私が彼の名前を呼ぶ前に呼んだのは営業部長だった。
部長が彼の進行方向の先で手招きしている。
私は思わず足を止めた。
まさか部長のまん前で修羅場(いや愁嘆場か?)を繰り広げるほどの勇気はない。
それに、営業部長の顔は引き攣っている。
何かあったのだということは、私にも分かった。
部長はジョンファに顔を寄せると、なにやら早口でささやいた。
ジョンファは無表情に聞いている。
そして、何か反論しようとしたが 部長はその言葉を手でとめると厳しい顔つきでまたなにやらささやいた。
部長がこれ以上は関わりたくないとでもいうように足早やに去っていっても彼はその場でしばらく動かなかった。
そして、ふと視線を上げて私をみつめる。
私はおずおずと彼に近寄った。

「何かあったの?」

「あなたには関係ない」

ああ、そうそう、この声だ、この口調だ。
半年前の彼だ。

「邪魔して悪かった」

それだけを言うと、彼はその場を、違う、私のそばを離れようと長い足を踏み出した。

「ジョンファ」

呼び止める私に、彼は振り向かない。
その広い背中が怒っている。

「帰ってきたのに。
あなたが、早く帰っておいでって言うから、僕は帰ってきたのに」

怒っているのに、どうしてそんなに哀しげに言うのよ。

「だって、あなた私に言わなかったわ」

「何を?」

彼は背中を向けたまま。

「縁談・・・」

「縁談なんかない」

「・・・うそつき・・・」

そうよ、あなたはうそつきだもの。
お兄さんのセーターは捨てたと言ったのに あの日、そのセーターは寝室にあったわ。
肝心なこと、とても大切なことは正直に言ってくれなかったじゃない。
私も私だ。
たった八ヶ月前にも、好きだった男にだまされたばかりじゃないか。
「愛している」と、何度もベッドの中で言った男は、でも私を捨てた。
ジョンファはまだまし。
私に一度だって「愛している」なんて言ったことはない。
たった一度だけ、お互いに寂しくて肌を重ねただけじゃないか。
まるで高校生のように街角を歩き回り ケーキを食べる散歩を繰り返しただけじゃないか。

まだ、今なら傷は浅い。
まだ、今なら、この人から私の心を引き剥がすことはできる。
なのに、私は彼の名前を呼んでしまう。

「ジョンファ」

「ごめん、今は行かなくちゃ。
待ってて。僕が帰ってくるまで」

彼は私を一度も見ないまま、行ってしまった。
そうよ、なにかとても後ろめたそうに。
・・・やっぱり・・・あなたは、嘘をついていたの?



その夜、毎日定期便のように届いていたメールも届かなかった。
彼からのメールが来ない携帯電話を握り締め、私は目を閉じる。
でも、眠ろうとすれば まだ見たこともない若い女性が彼のそばに寄り添う姿が浮かんでくる。
私はまた、眠れない夜を過ごした。



翌日、私はランチのときに、せっかく会社に戻ってきたジョンファが慌ててチェジュに引き返した理由を知った。
例の女性、ジョンファにぞっこんだというクライアントの社長秘書が、行方不明になったらしい。

「でね、ジョンファssiは、探しに帰ったわけよ」

「でも、どうして行方不明になったの?」

「けんかですって。
朝の打ち合わせのときに意見の食い違いが合ったらしいんだけれど、
彼は気にも留めず、とにかくこっちへ帰ってきたわけよ。
2週間あっちに行ってたし、本社への報告もあったしね。
ところが、彼女のほうはショックを受けていたらしくてそのまま現場を出ちゃって、行方不明になっちゃったんですって」

「で、ジョンファssiも慌てて帰ったわけ?」

「うん、本社滞在時間、たった1時間」

「見つかったの?」

「夜中に帰ってきたらしいわ。
1日中、ライバルホテルの部屋に籠もっていたんですって。
人騒がせにもほどがあるわよね〜」

「夫婦喧嘩は犬も食わない」

「まだジョンファssi と結婚してないわよ」

「でも・・・近々なんでしょう?」

チェミンとハヌルとそのほか2名といういつものランチメンバーは口さがない。
若さというのは本当に残酷だし、無邪気だ。
分かっていながら彼女たちと一緒にランチをしている私のほうが愚かだが。
でも、一人にはなりたくなかった。
一人でいると、ジョンファを思い出す。
彼と歩いた街角や、彼の笑顔や、彼のしぐさや、彼の声がよみがえる。
ねぇ、ジョンファ、本当にあなたは嘘をついていたの?
あんなに優しかったのに?
・・・でも、一人でいたほうがよかった。
昨日、彼が後ろめたそうに去って行ったのにはこんな理由があったなんて。

「ねぇ、ジェヨンssi」

ハヌルの声に、私は、はっと目を上げた。

「ソジンssi のほうも、そろそろ目途がつきましたね。
あと1週間くらいでしょうか?」

「ええ・・・まぁ・・・」

あいまいな私の返事に、チェミンが早速茶々を入れる。

「ジェヨンssi、寂しいの?
だって、毎日ソジンssiと一緒だったんですものね〜。
いっそのこと、3課に異動願い出したら?」

あとの3人の「若者」たちが、無邪気に笑っている。
こいつら、本当に、魔物だわ。 私はゆっくりと立ち上がった。
もう、じたばたする気力もないような気がする・・・。

結局1週間、またジョンファはチェジュに行ったっきり、帰ってこなかった。
ほかの営業マンはすでに次の仕事にかかっているのに 彼だけはチェジュにかかりっきりだった。

「あいつをクライアントが放さないらしい」

さりげなく、ソジンがささやく。

「ヘッド・ハンティングされるんじゃないかともっぱらのうわさだ」

聞かない振りしても、私の耳はダンボになる。
ソジンはそれを面白そうに見ている。
意地悪な男。
けれど、彼のチームも解散が近づいていた。
ソジンたちも会社を留守にすることが多くなったが 私には常にリアルタイムに進行状況が入ってくる。
入社して10年、私は初めて仕事の面白さが分かってきた。
いつも営業マンのバックアップだけで満足していたのに ソジンたちと一緒に仕事をすることによって、与えられた仕事だけではなく 自分から積極的に仕事を作ってもいいのだということを知った。
ソジンがいうように、私は10年間、営業マンたちの仕事を後ろから見てきた。
数え切れないほどの書類を作り 仕事やお金の流れも自然に体の中に取り込んできた。
それが自分の財産となっていたことを、初めて私は自覚する。

「わかったか? お前はもっと仕事ができる」

ジョンファと気まずい別れをして1週間目

「そろそろここ、片付けるか」 と、相変わらずテーブルを椅子代わりにしていたソジンがミーティングルームの中を見回すついでに、私にそう言った。

「できるって言ったって、私は営業事務の人間よ。
明日から、また1課に戻って、彼らのバックアップをするのが仕事だわ」

私の言葉が、やや残念な口調になるのは致し方ない。

「ん〜」 ソジンは手元の書類に目を落とした。

「お前さぁ・・・」

「何?」

「一緒に独立しないか、俺と」

「独立?」

「ん」

ソジンはにっこりと笑うと、手にしていた薄い書類をぽんと私の手の上に置いた。

「はい、新しい会社の設立申請書。  明日、提出」

はい? 新しい会社って・・・。 私は慌てて手の上にある書類に目を落とした。
そしてそのページをめくる。

「すぐ受理されるし、俺の退社は1ヵ月後。
お前も今から退職願い出せば、1ヵ月でやめられるだろう?
そうなれば、めでたく1ヵ月後には新会社が立ち上げられる」

「ちょ、ちょっと待ってよ!
一体何の話よ!」

「だから、独立するの、俺。
今回のチームのメンバーも半分一緒にね。
そこにお前が加わってくれれば、鬼に金棒。  どうだ?」

どうだって・・・ソジン。
彼はもともと会社を辞めて独立するつもりで帰国を望んでいた。
しかし、会社のほうも簡単には彼を手放せない。
そこで、今回の仕事をちゃんと終えてそれなりの成果を出せば退職を認めるという条件が出されていたそうだ。
彼は見事その条件をクリアした。
今日、彼の退職願いは受理され、1ヵ月後の退職が認められたのだという。

「もちろん、会社との関係は絶たない。
最初はいろいろ便宜も図ってもらうつもりだし。
クライアントもいくつか持って出る予定だからこの1ヵ月、もう一本、大きな仕事を置き土産にするつもりで片付けるよ。
それのフォローも頼む」

私のぽかんとした表情がよほどおかしかったのか、ソジンは笑い出した。

「お前、もうそんな表情が似合う年齢でもないだろう?」

ほっとけ。
けれど、本当に驚いたのは確かだった。
それに・・・それに、私も?

「ソジン・・・、なぜ私なの?」

「なぜって?」

「だって・・・、私は・・・」

「帰国してから1ヶ月以上、お前の仕事を見てきた。
この5年間の仕事もちゃんとチェックした。
お前は気がつかなかったが、5年前だって俺はお前を評価していたよ。
お前だけが自分の実力に気がつかずに、5年間もくすぶっていたんだよ。
相変わらず、馬鹿なヤツだ」

「ソジン?」

「あ?」

「それって・・・、5年前にあなたについていかなかったことを指しているの?」

「あたり!  5年前、お前をパートナーにしそこなったから、 今度こそビジネスパートナーにしてみせる」

もうソジンは笑っていなかった。
真剣な顔をして私を見上げていた。
私・・・私は・・・。
可能性・・・。
そんなもの、とっくにあきらめていた。
ううん、考えてもいなかった。
でも、本当に私の目の前にも、新しい道が開けるというの?

「あなた・・・、この間私が貧血起こしたとき、言ったそうね。
これ以上、ほかの男に任せられないって。
それはひょっとしてこういうこと?」

「もちろん!」

彼は、小学生がほめて欲しいと母親を見上げるときと同じ瞳をして 私を見ている。
そんな男の顔を見て、でも、私は頭の中が混乱している、まだ。

「ソジン・・・、今すぐに返事はできない」

「・・・答えは、OKしかないぞ。
俺と一緒にやろう」

「だって・・・私」

「あきらめろ、あいつのことは。
あいつは、兄貴が亡くなってしまった今、跡取りだ。
自分の意思だけでは結婚はできない。
お前だって長女だろう。
嫁にいったら、両親はどうするんだよ」

私は恨めしげに彼を見下ろした。

「・・・どうしてそう意地悪なの?」

「ン・・・、5年前に振られた腹いせ・・・」

「すぐ結婚したくせに」

「・・・すぐに一人になっちまったけれどね」

「・・・離婚したの?」

「・・・いや」

軽い口調で話していた彼が、初めて顔を曇らせた。
私は眉を上げる。
ソジンがちょっとだけ口辺を上げて、自嘲っぽい笑みを見せた。

「結婚して2年目にね、交通事故で亡くした。   2人とも」

「2人?」

「妻のおなかの中に・・・」

私は、ぎょっとして彼をみつめる。
彼は、それでも微笑みながら私をみつめていた。

「大丈夫?」

「ん。2年たって、やっと一人に慣れた」

慣れた・・・という彼の口調が苦い。
元恋人(もどき)の勘を舐めるなよ・・・。

「ソジン?」

「ジェヨン、もう一度、俺とやろう・・・ただし・・・仕事を」

私は、ふっと微笑んだのかもしれない。
一歩彼に近づくと、寂しげに微笑む彼の頭を抱きしめた。

「・・・おまえさぁ・・・」

「ん?」

「5年たって、ますますいい女になったな。
5年前、こんなことさせてもくれなかったのに・・・。
かたくってさぁ、27にもなるのに、キスしかさせてくれなかった」

「あのね、もう私は何も知らない女の子じゃないのよ。
社内恋愛禁止の会社で・・・、3人もの男性と付き合って・・・
結局別れちゃう女なんだから・・・」

「・・・ん、いい女だ」

ソジンの腕が伸びて、私をそっと抱きしめた。

「ソジン・・・」

「ン?」

「ジョンファは、本当にいい仕事する?」

「ああ・・・、実力はある。
ボツになった企画書だって、あれ、いいよ。
クライアントはいつも気まぐれだからな。
俺たちは、いつもそれに振り回される。
それを、あいつ、完璧に作り直しやがった。
10人の男たちをまとめあげてね。
あの企画力とリーダーシップは認めてやってもいい。
参ったね、あいつ、4つも年下なんだから。
あとはチャンスだけだ。
今回の縁談は、大きなチャンスになるはずだ」

「そっか・・・」

私はソジンを胸に抱きながら、ぼんやりと宙を見上げた。
私にだってチャンスは訪れた。
今、私の腕の中にいる男は、それを私に与えてくれるという。
そのとき、ドアにはめられた曇りガラスを影が覆った。
背の高い影。
私はそれを見つめる。


「ソジン」

「ん?」

「あなたも本当にいい男だわ。  
ありがとう。私を認めてくれて。
私、決心できそう・・・」

「そうか、やっぱりいい女だな、お前」

ドアの前を影が離れる。
私は、ゆっくりとソジンの頭を離すと、その部屋を出た。




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