・・・けれど、社内では違う方向に話は進んでいた。
昨夜の仕事の仕上げにかかるというジョンファを残して私はミーティングルームを後にした。
就業時間の10分前に、同じ階にある営業フロアに入った私は、いきなり、ぞわっという小さなさざめきに包まれた。
男性社員は見ない振りをするし、女性社員は、羨ましい、嫉妬 、そして、なぜだかほっと安堵の表情をした3つのグループにきれいに分かれてくれた。
その視線の中で、私は思わず足が動かなくなる。

「キム・ジェヨン!」

その私に、フロアの奥、課長席から大きな声がかかる。
しぶしぶ万年課長の前に立った私に、彼はぴらっと1枚の紙を差し出した。

「明日から、第3課に行ってもらう。 なかなかご活躍だな。
ま、今度は通常業務からは解放されるから、少しは楽だろう。
今日中に、1課の仕事はほかの人間に振り分けといてくれ」

皮肉か? 狸親父。 しかし、私はしおらしく「はい」と返事をすると、自分のデスクに戻った。
周囲の女子社員が、何か言いたげな表情で私の動きを見ている。
私はうんざりすると、すばやくパソコンを立ち上げ自分の仕事を確認した。
ここ半月、ジョンファチームの仕事と平行してやっていた通常業務は時間がかかるだけでそれほど面倒くさいもんじゃない。
1課の10人の営業マンの事務処理をやるだけだ。
後は、彼らをサポートして新たな書類を作成したり 時には経理や会計の真似事をして経費管理をする程度。
3人の営業事務担当の同僚とシェアしてやってきたし 特にいまさら彼女たちに言うべきことはない。
ただ、彼女たちの仕事量が少々増えるだけのことだ。

「チェミン」 私は横に座る後輩に声をかけた。

「はい」 いつになく元気に返事をしてくれた後輩の顔を、私はしげしげと眺めた。

「チェミン?」

「はい」

「・・・嬉しそうね」

私の皮肉な言葉に、あれ?っと すっとぼけた表情を繕った彼女は、すぐにぺロッと舌を出す。

「だって・・・先輩」

「何よ」

「ライバルが一人減ったんだもん」

「ライバル?」

「だってぇ、先輩はソジンssiの恋人なんでしょ? ジョンファssiと仲がいいから
ちょっと心配していたんだけれどぉ・・・」

ぎょっとして私は彼女の無邪気な顔を凝視した。
な、なんだとぉ? まだ入社して3年のチェミンは、25歳という年齢よりも若く見える。
耳の辺りでふわんふわんとはねっかえるヘアスタイルもよく似合う。
その彼女の口から無邪気に「ソジンssiの恋人」だと言われて、私は慌てふためいた。

「ちょっと、待ってよ。 何で、私がソジンの恋人なのよ!」

潜めていてもつい声が鋭くなる。
営業1課のアイランド(デスクの島)にいる同僚たちの目はほかを見ているのに耳が興味津々とダンボになっている。
こいつら・・・。

「だぁって・・・、先輩。 昨日、ソジンssiが言ってたもん。
これ以上、ほかの男に任せておけるかって」

はい?

「私が先輩を抱き起こして泣いていたら、すぐにソジンssiが駆けつけてくれて 先輩のこと抱きしめてつぶやいていたもん。
先輩とソジンssiって、昔恋人同士だったんでしょ?
ソジンssiはいまは独身だし、先輩のこと忘れてなかったってことじゃない。 やけぼっくいに・・・」

私は慌てて彼女の口に手を当てた。
これ以上、火を大きくするな!
それでなくても、周りの女性社員の視線は冷たいんだから。

しかし、分かったぞ。
さっき、私を見た安堵の視線。
みんな、ジョンファのファンだな。
チェミンめ、今、無邪気に私に言った言葉を そっくりそのまま給湯室か更衣室でしゃべくったに違いない。
私とジョンファの仲を疑っていたオンナどもは その言葉にほっと安心したことだろう。
ライバルが減った・・・と。
しかし、ソジンも余計なことを! それでなくても、ややこしいことになっていると言うのに。

「せんぱぁい」

何だ、おしゃべりチェミン!

「先輩さぁ・・・」 と、声を潜めて私の耳元でそっと告げた。
「ミソンに譲ってよかったね。 彼より・・・」 と、彼女はかわいいあごで、私たちの斜め前に見える背中を指した。

「ソジンssiのほうが将来性あるもん」

こいつも絞め殺す!!

私は彼女の言葉を無視して 手元にあった書類の束を彼女のデスクの上に音高く置いてやった。

「チェミン! 明日からこれ、全部あなたの仕事! しっかりやってよね!!」



その日1日、私は好奇心丸出しの視線の中で仕事をした。
営業第3課のデスクアイランドは、1課と対称的に広いフロアの一番向こうにあった。
しぶしぶ挨拶に出向くと、営業も出払って事務担当の女ばかりが残っていたが 案の定、とてもとても冷たい視線で迎えられた。
もっとも、彼女たちよりも私ははるかに先輩だ。
(少なくとも一番年嵩のオンナより5つは年上だろう)
「よろしくお願いします」 と、先に挨拶したのは彼女たちだった。
同じように挨拶をし、私はこのアイランドで仕事をしなくていいことに胸をなでおろした。
私は、またソジンチームが陣取るミーティングルームにこもりっぱなしになることだろう。


「私がアシスタントにつきます。
テ・ハヌルです。よろしくお願いします」

一番手前に立っていたすこぶる美人に挨拶されて、私は「ああ」と納得した。

確かソジンは「若いアシスタントをつける」と、言っていたっけ。
確かに若い。
少なくとも、まだ25歳にはなっていないだろう。
あの、かわ生意気なチェミンより若そうだ。

「私は通常業務とジェヨンssiのアシスタントを平行してやりますので、
至らないところがあるかもしれませんが、遠慮なくおっしゃってください。
ソジンssiからも、ジェヨンssiの仕事をよく見ておくようにと言われていますし・・・」

またまた余計なことを。 内心うんざりしつつ、私はそつなく挨拶を返した。
明日からが思いやられる・・・。



その1日、私はジョンファと顔を合わすことはなかった。
彼は最後の確認に走り回っていたのだろう。
その代わり、ソジンがみんなのわくわくの好奇心に見守られながら 私のデスクにやってきた。

「こっちの仕事片付いたか?」

「・・・おかげさまで」

「ンじゃ、明日からよろしく」

軽やかにそれだけ言ってくれると、彼もさっさとフロアを出て行った。
急いでいるなら、私のところへわざわざ来るな!



夕方、仕事が一段落し 女の子たちはそれぞれに「お疲れ様」「お先に」とフロアを出て行った。
営業マンたちもそれぞれが帰社して、デスクで報告書などを書いている。
私も自分のデスクの上を片付けると、さっさとフロアを後にした。
ジョンファチームがたむろっていたミーティングルームを覗くと 、たった1日できれいさっぱり片付いていることに私は驚いた。
私が毎日うんざりしながら整理していた散乱しまくりだった大量の書類やファイルは一体どこへ消えたのか もうここには何もない。
中央にデンと会議テーブルが置かれ、椅子がきっちり等間隔に置かれている。
ただ、ジョンファが丸くなって眠っていたソファに たたまれた毛布がおいてあることだけが今朝までの喧騒と焦燥を思わせるだけだ。
私は後ろ手にその部屋のドアを閉めた。
タイミングよく、隣の第2ミーティングルームのドアが開く。 会いたくない男がまた立っていた。

「ジェヨン」

「何でしょうか、ソジンssi」

「何、わざわざ挨拶来てくれたの? ちょうどいい、メンバーに紹介しておく」

いらない、そんなの。
営業事務をやって10年。
ほとんどの営業マンの顔なら知っている。
しかし、私は彼にミーティングルームに引っ張り込まれた。
案の定、そこに並んでいる6人の顔ぶれを私は知っていた。
長い間、会社になどいたくないものだ。

「明日から、彼女、ここに詰めてくれるから、なんでもアドバイスもらうといい」

ソジンの朗らかな声に、6人の男どもは にやりと笑ったり、神妙に頭を下げたりしている。
はいはい、いくらでもこき使ってくれ。
どうせ、私はあなたたちの雑用係だもの。

「ただし、言っておく。 彼女を雑用係として使うことは許さない。
この人は、君たちの仕事振りをこの10年、しっかりと見てきた人だ。
俺たちが手がけているイベントが何たるかも知っている。
さっき言ったように、アドバイスをもらうなら、かまわない。
彼女にしかできない書類を依頼するのもかまわない。
けれど、コピー取りやお茶くみは許さない。 わかったな?」

えっと驚いたのは私のほうだった。
はっきりと言い切ったソジンは どうだ?というように私の顔を見下ろしている。
言い渡されたメンバーは そんなことはとうの昔に聞かされたと見えて、誰も驚かない。
驚いたのは私だけだった。

「言っただろ? お前は自分の仕事の仕方を変えたほうがいい。
5年前と同じスタンスで仕事をするな。
十分ベテランなんだから こいつらが見えていないところまでしっかり見えているはずだ。
ハッパかけてくれるのもいいし、アドバイスも望むところだ。
アイデアもどんどん出してくれ。 だから、メンバーにどうしても欲しいと部長に頼み込んだんだ。
越権なのは分かっている。 でも、俺はお前の実力を認めているんだ」

諭されるように言われて、私はただソジンの顔を見上げるしかなかった。
誰も今まで、私にそんなことを言った男はいない。
完全に時代錯誤な「社内恋愛禁止」というルールが今でもあることから分かるようにうちはとにかく規模も大きく歴史も古い会社だ。
その分、封建的で、いまだに入社してくる社員の身元はある一定以上の地位のある人間の保証が必要だし
女性社員の仕事は事務が大半を占めている上に 寿退社が奨励されている。
超近代的なビルに社員は押し込められているくせに 前近代的な社風はいまだに息づいている。
その中で、私は何も疑問を持たずに仕事をこなしてきた。
周りの男性社員だって、それが当然だと思っていたに違いない。
そう・・・あのジョンファでさえ・・・。
けれど、ソジンは違った。
アメリカでの5年間が、彼を大きく変えたのだということは分かる。
その彼が、アメリカへの同行を断った私を引き立ててくれようとしているのだ。
この皮肉を、私はどう受け取ればいいのだろう?

「Ok。じゃ、今日は解散。 明日から頼む」

がたがたと椅子を揺らしながら、6人の男たちは部屋と後にする。
後に残ったのは、ソジンと私だけ。

「何、驚いているンだよ」

「だって、ソジンssi。私は・・・」

「やりたいようにやれよ。
もちろん、しっかりと営業事務はしてもらうが、 あいつらの管理も頼む。
最近の若いやつら、とんでもないこと平気でするから」

ゆったりとテーブルに腰をかけて、ソジンは大人の顔で私を見ていた。
それもそうだ、彼は34歳になる。
仕事にも人生にも満足している男だけが持つ自信をあふれさせ、彼は私を見ていた。

「ジェヨン」

「はい」

「・・・まだ一人なんだろ?」

「・・・大きなお世話」

「なぜ結婚してなかった?
俺は、多分、お前はもうとっくに母親になっていると思っていた」

「私もそのつもりだったわよ。
縁が無かった、ただそれだけ」

そう、縁が無かった。 ソジンにも、八ヶ月前に私を振ってくれた男にも。
・・・ただ、今は・・・。

「あの、若いのと付き合ってるの?」

「え?」

「カン・ジョンファ」

「・・・」

「年下のボウヤだろう?
あいつ、俺がお前を抱いてエレベーターに乗るのを見て、すごい形相していた。
でも、あいつじゃ、お前をだめにしてしまう。
仕事でも・・・恋愛でも」

「・・・大きなお世話よ」

「まぁね。でも、知ってるか? あいつ、お前なんかと結婚しないぞ」

私は思わずソジンの顔を凝視した。
その私の顔を見て、ソジンはひょいと体を起こして腰を上げると 私にバサっとファイルの束を渡した。

「これ、目を通しておいて。明日から頼む」

それだけいうと、彼はさっさとその部屋をあとにした。
私一人を残して。
私は一人でぽつんと立ちすくむ。

・・・結婚。   
結婚?


私もその部屋をあとにした。

・・・そんなこと・・・




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