翌朝、私は、いつもより1時間早く会社に入った。
更衣室にも行かずミーティング室に直行すると 案の定、彼が部屋の片隅のソファで丸くなって眠っていた。
いつもなら、2〜3人、そこら辺にごろごろ転がっているのだが 幸いなことに昨夜徹夜したのは彼だけだったようだ。
広いミーティングテーブルの上には、様々な資料が乱雑に積み上げられていた。
7台のパソコンは電源が落ちていたが 1台だけは日本の映画スターのゴジラが火を噴きながら踊っている。
ふざけたスクリーンセーバーだが だからこそそれが彼のパソコンだとわかる。
私はそのパソコンのエンターキーをぽんと叩いた。
そのディスプレイを覗き込むと 私が清書するはずだった書類が完成しているのが分かった。
彼が自分の仕事のあと、徹夜して清書したのだろう。
これで、すべての準備は整ったことになる。
当然だろう。 もう明後日には現地入りするのだから・・・。

「ジョンファssi」

声をかけると、彼がうっすらと目を開いた。

「・・・何?」

うっとおしそうにそれだけをやっと言うと 彼は薄い毛布をまた自分のまぶたの辺りまで引き上げた。

「もう朝よ」

「・・・知ってる・・・寝たの、6時半だから」

私は思わず腕時計を確かめた。
機嫌が悪いのは当然だろう。
何しろ、まだ7時半だもの。

「ジョンファssi」

「・・・あと1時間くらい寝かせてよ。
何なら添い寝してくれてもいい」

「・・・遠慮しておく。
昨日はソジンに抱き上げられて 今日はジョンファssiと寝ていたら
私、営業一課のお局様っていう肩書きにプラスして 尻軽女のそしりを免れなくなる」

びくんと彼の肩が動き、のそりと彼は起き上がった。
少なくとも、彼に憧れて きゃ〜きゃ〜言っている女性陣には見せたくない寝起きの顔だった。
(私は2度ほど見ているけれどね)

「徹夜させてごめん」

「ジェヨンssiに謝ってもらう必要はない」

不機嫌そうに言うと、また彼はごしごしと目をこする。
母性本能を刺激しまくってくれるそのしぐさに、私は思わず目をそらした。
ここは会社。
一応、社内恋愛禁止という有名無実なルールは、厳然とそこにある。

「何? ジェヨンssi。
もうあなたの仕事は終わったよ」

「うん・・・。ごめんね」

「だから、あなたに謝ってもらう必要はない。 僕の仕事だ」

「だから・・・はい、これ」

私は彼の目の前に、バンダナで包んだ四角い箱をぶら下げた。

「何?」

「朝ごはん」

「はい?」

「冷蔵庫の中のありあわせのもので作ったから、イマイチだと思うけれど・・・。
こっちのポットには、あったかいコーヒー淹れてきた。
昨日・・・ご馳走しそこなったから・・・」

まだ頭がはっきりしてないのか ちょっとぼんやりと私の言葉を聞いていたジョンファは やがて、にやりと笑った。

「ジェヨンssi」

「何?」

「ピクニックに行くんじゃないんだから・・・。
あったかいコーヒーなら、ベンディングコーナーの自販機にだってある」

「あなたねぇ・・・」

むかついてポットを引っ込めようとした私は けれど、それ以上言えなかった。
ポットを持っていた手をそのまま引っ張られて 私はジョンファに抱きとめられていた。
そのままくちづけされる。
ほんの一瞬だったけれど。
あわてて体を起こすと、私は狼狽して非難の声を上げていた。

「何するの!」

「朝ごはんのお礼。食べていい? 実は昨日の夜も食ってない」

けろっと言い放った彼は 早速、そのバンダナの結び目をするっと解いた。
中から出てきたのは私のランチボックス。 (おかげで、私のお昼は、まずい社員食堂だ)
マジにありあわせのものしか詰め込んでいないお弁当を 彼はしげしげと眺め

「あなたの食生活、少し考え直したほうがいいと思う」 と、のたまわった。
言ってくれるじゃないの。

でも、私は何も言い返さなかった。
彼が黙って朝ごはんを胃の中に詰め込んでいる横で 私も黙ってそんな彼を眺めていた。

「ジョンファssi」

「何?」

「・・・もう私、お役ごめん?」

「うん・・・。もう大丈夫。
全部終わった。
もう、貧血起こすほど仕事押し付けないから安心して」

器用に箸を動かし、彼が淡々と言う。
私も黙った。
仕方がないので ポットのふたをコップ代わりに自分が淹れてきたコーヒーを飲む。

「・・・ジェヨンssi」

「何?」

「・・・なんであいつの前で倒れたんだよ」

「え?」

「・・・僕と別れてすぐだよね、貧血起こしたの」

「別れてって・・・、勝手にあなたが怒って行っちゃったんじゃないの」

「すれ違ったんだ、あいつと、エレベーターの前で。
何か、忘れ物を取りに戻ったらしい。
そのあいつの前でジェヨンssiは貧血起こした。
何で、僕の前じゃなかったんだよ。
たった2分違いで、僕はあなたをお姫様だっこできなかった」

真剣な目で見つめられて、私は狼狽した。
バ・・・ばっかじゃないの、こいつ。
でも私は、自分の頬が急激に熱くなっていくのを感じた。

「そのうえ、あいつ みんなの前であなたのこと呼び捨てにして、ぎゅっと抱きしめたんだ」

ちょっとまてぇ!

「ジョンファssi 。あなたもその場にいたの?」

「いた・・・」

拗ねた子供のように、彼は目をそらす。
何でそんなとこにいたのよ。
あなたはさっさとどっかに行ったんじゃなかったの?

「エレベーターに乗ろうとしたら 『ジェヨン!』って言うあいつの声が聞こえて、 だから、僕も戻ったんだ。
そしたら・・・あいつ・・・。 あなたを抱きしめていた。
そして、僕の前をあなたを横抱きにして エレベーターに乗って行ったんだ。
殴ってやろうかと思った」

え?

「ジョンファ?」

「ジェヨンssi」

「なに?」

「社内恋愛、禁止だからね!」

はい? ちょっと、おまちを、お坊ちゃん。
さっきから、あなた、自分で何言っていたかわかっているの?
その挙句が、「社内恋愛禁止」・・・だとぉ?

「ジョンファ?」

「・・・ただし・・・、僕以外とは」

まるで反抗期の男の子のように不機嫌そうにそれだけ言うと1、ジョンファはランチボックスの中に最後まで残っていた ミニトマトを憎々しげににらんでいる。
私は・・・、多分、かなり間抜けな表情をしていたと思う。
ジョンファがちらりと私を見て、また ぶすっと視線をミニトマトに戻した。

「ジョンファ?」

「何だよ」

「・・・ミニトマト、嫌いなの?」

「・・・ソジンssiよりましだ」 と、いうなり、指でそのミニトマトをつまむと、口に放り込む。
そして、思いっきり奥歯でかみ締めたようだった。
とたんに情けない表情になる。
やれやれ、こいつ、本当にトマトが嫌いだったようだ。
私はあわててカップにコーヒーを注ぐと、彼の前に差し出した。
ジョンファはしぶしぶそのカップを受け取ると さも不味そうな顔をして飲み下した。

「ジョンファ?」

「何だよ? さっきから、ジョンファ、ジョンファって
目の前にいるんだから、そんなに呼んでもらう必要はない」

「今度、トマトのおいしい料理作ってあげる」

「願い下げだ」 拗ねたように言う。
ジョンファ、本当に困ったボウヤだこと。
彼は、けれど、きれいに空っぽになったランチボックスを器用に重ねると、またバンダナで包みなおし、私の前に差し出した。
そして、いつも女子社員をノックアウトしている笑顔でにっこりと微笑むと、「ごちそうさま、おいしかった」 と、エリート社員の声音で言ってのけてくれた。
こいつの二重人格は、一筋縄じゃいかない。

そのとき、ミーティングルームへ向かってくる足音を 彼は耳ざとく聞きつけたようだった。
鋭い目で私にランチボックスをしまうように指示すると 自分はさっさと立ち上がり
デスクの上に放り出されていためがねをかけて書類の束を手にした。
私はあわててバッグの中にランチボックスとポットを放り込み、乱雑にほうり出されている書類を整理する振りをした。

いきなりドアが開いて、そこから顔を出したのは先ほどトマトと一緒にジョンファの奥歯で噛み砕かれたはずのソジンだった。

「あ、やっぱりここにいたか」

彼は私の顔を見るなり、呆れたような声を上げた。
その声を聞くなり、ジョンファが ソジンには見えないほうの顔半分をゆがめたのが私には分かった。

「ジェヨン、無理するなって言っただろう?
今日ぐらい、休めばよかったのに。
ジョンファssi、こっちの仕事、一段落したって言ってたよな?」

私とジョンファの顔を交互に見ながら、ソジンは快活に言う。

「ええ。明後日から現地入りですから」

ジョンファはしぶしぶ答える。
なにしろ、ソジンは4つ年上の先輩だ。

「じゃぁ、いいな、ジェヨン。
明日から、俺の仕事、手伝ってくれ。
もう一人、お前の下に若いアシスタントつけるから、じっくりやってもらえる」

「な・・・」

私が唖然として返事もできない前に ジョンファがするっと私の前に立った。

「一段落したとは言いましたが、 まだジェヨンssiにはお願いしたい仕事が残っています。
勝手にスカウトしないで下さい」

「え? 部長にちゃんと確かめた上でのヘッド・ハンティング。
それに君のチームは、明後日から現地入りだろ。
それとも何 彼女にここで君たちチームのバックアップでもさせるつもりだったの?
甘えるのもいい加減にしろって言っただろ?
このまま君のチームにいたら、彼女、また倒れてしまう。
彼女は仕事にのめりこむタイプで 自分じゃなかなかブレーキが利かない。
せっかくいい仕事するのに、それがネックになって いまだに営業事務のまま仕事に追われている。
俺は驚いたよ。 彼女が5年前とちっとも変わらないスタンスで仕事していることに。 だから、俺は・・・」

「ソジン!」

とうとうとまくし立ててくれた彼の言葉を、私はさえぎった。
ジョンファが何かを言い出す前に。

「ご心配ありがとう。
そして、昨日は本当にお世話になりました。
でも、自分のことは自分でフォローできるわ」

「できないから倒れたんだろう?」

痛いところ衝かれて、私は一瞬、言葉に詰まった。

「ソジンssi。 とにかく、今、ジョヨンssiをそっちへ引っ張られたら、こっちが困る。
それに、この人は便利屋じゃない。
1課の人間だ。 3課のあなたの下で働くいわれは無い」

私がソジンと言葉を交わしていたときに ジョンファは少し落ち着いたに違いない。
さすが、エリート営業マン。
見事に抑制された言葉にひやりと冷たい棘を潜ませて、彼はまた私たちの会話の中に入ってきた。
しかし、ソジンのほうが上手だった。

「有能な社員がひっぱりだこになるのは当然だろう?
もう部長の了解はとってある。
いまさら変更はできない。
こっちだってもう日程表を提出してしまったんだ。
彼女のスケジュール延長をちゃんと部長に申告してなかった君のミスだ。
あきらめてもらおう」

「私は、了解してないわ!」

「君の意思は関係ない。会社の方針だ。
後から課長から連絡いくよ。じゃ、のちほど」

まるでこちらを馬鹿にしているのかと思えるほど鮮やかに 最後通牒を突きつけて、ソジンはドアを閉めた。
私の目の前にジョンファの背中がある。
上着を着ていない、よれよれのカッターシャツの後姿。
きりきりと力が入っていたその肩から、すとん、と力が抜けた。

「ジョンファ?」

恐る恐る言った私の声に、彼は振り返る。
彼が自分自身に対して怒っているのが分かった。
ふっくらとしている口をきゅっと閉じて 目元がかなり険しくなっている。
けれど、怒っていてもなんてきれいな男なんだろう・・・と 場違いな感想を持ってしまう私。

「ジョンファ?」

「ジェヨンssi?」

「何?」

「・・・僕は、彼とあなたを取り合うつもりはない。 それでいいよね?」

「え?」

「それでもいいよねって、僕は訊いている」

「え・・・ええ」 ・・・と、返事をしたものの、私はイマイチ彼の尋ねていることが分からない。
でも・・・、一瞬後に、私は知った。
ジョンファは私を抱き寄せた。

「ジェヨンssi。
社内恋愛禁止という時代錯誤の会社の中で、3人もの男と付き合うあなたの蛮勇に感謝する。
・・・ま、それだけ長い間、この会社に勤めているってことだけれど・・・」

「ジョンファ!」

「・・・彼と取り合ったりしない。
あなたは、今は僕と一緒にいるんだから」

「うん・・・」




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