次に目を開いたとき、私の目の前には真っ白い天井。
不規則なプリーツのカーテンが私を囲んでいる。 私はベッドに寝ていた。
なんてこと・・・。
私はまだぼんやりとした頭の片隅で考える。
貧血を起こしてしまったらしい。

「ああ・・・気がついた?」

情けなさに思わずうめいた気配に気がついたのか カーテンを開いて若い女性が覗き込んだ。
会社の嘱託ドクターの女医だった。
私は医務室に運び込まれたようだ。
起き上がろうとして、また目の前にグレイの紗がかかる。

「あ、だめ。無理しないで」

あわてて手を伸ばしてきた女医にすがると 私はまたそっとベッドに横たえられた。

「え〜っと、キム・ジェヨンssiでしたっけ?」

「・・・はい」

私は目をつぶったまま答えた。 また胃の辺りが気持ち悪い。

「もう少し横になっていたほうがいいわ。 顔色、悪いから、まだ。 気持ち悪くない?」

「・・・悪いです」

「ん〜っと、かなり疲れているみたいね。
少し仕事しすぎね。 今は、過労死なんてはやらないのよ。
もう少し後輩とワークシェアリングした方がいいと思うわ。
そうじゃないと、彼女たちも仕事覚えないし。
そうそう、その後輩たち さっき、退社時間になったからって覗きに来たけれど
まだあなた眠っていたから帰ってもらったわよ」

どう?という表情で顔を覗き込まれて、私は吐き気を飲み込んだ。
この女医は、多分 「営業第一課のお局様」なる私のうわさを聞いているに違いない。
仕事が忙しいのは私だけの責任じゃない。
あの、おとぼけジョンファが 私を自分のプロジェクトに無理やり引っ張り込んで
事務処理をすべて私にやらせているせいだ! ・・・なぁんて・・・本当はちっとも思ってない。
自分で進んで忙しくしていたんだもの。

ごめんね、ジョンファ・・・。
しかし・・情けない。
ああ、みっともない。
若いころは、3日や4日、徹夜なんか平気だった。
それがちょっと睡眠が足りないくらいでこの体たらくだ・・・。
トシはとりたくない・・・。

思わずため息をついたとき、誰かが医務室に入ってきた。
落ち着いた足取りで男性だと分かる。
いきなりカーテンがシャッと大きく開かれるなり
「ジェヨン」と、大声で名前を呼ばれ 思わず目を開いて飛び起きそうになる。
しかし、その前に肩をがっしりと抑えられて、私はベッドに磔になった。
私の肩をプロレスのフォールよろしく抑え込んでいるのは、ファン・ソジンだった。

「ソジン」

「まだ寝てろ。顔色悪い。 かなり無理してたんだろ。
俺から、あの若いやつにもう一言、がつんと言っておこうか?」

「ソジン!・・・というより、何であなたがここにいるの?」

あれ?という表情で、彼は体を起こすと横で成り行きを面白そうに見ていた女医の顔を見た。
それにちょいと首を傾けて答えると ちっとも後ろめたそうな表情もしないで女医は楽しげに口を開いた。

「意識を失ったあなたをここまで運んでくれたのが彼なの。
それも、お姫様だっこで・・・」

そうそう、と満足そうにうなずいたソジンは、また私を見下ろす。
お、お、お姫さまだっこ・・・だとぉ!!!

「お前が倒れたとき、ちょうど俺が廊下を引き返してきたときだったんだ。
チェミンssiが大騒ぎして、お前を抱きかかえていたものだから・・・」

「そりゃ、この体格だもの、あなたを軽々と・・・」

私は唖然としてしまった。
吐き気さえ、どっかに行ってしまった。
お姫様だっこ・・・。
・・・女の子の憧れだけれど・・・、少なくとももう私は望んじゃいない。
それに・・・
それに、ソジンは、付き合っていた当時(もう5年も前だ)だって 私をお姫様だっこなんかしてくれなかった。
(つまり、まだごにょごにょの関係には至ってなかったってことだ。あしからず)
そんな彼が、私を抱き上げてここまで運んでくれた、だとぉ!? ち・・・ちょっと待て・・・。
ひょっとして・・・ 彼は私を衆人環視の前で抱き上げたのか、ひょっとして?
・・・ううん、ひょっとしてじゃない。
間違いなく私たちは多くの目にさらされていたに違いない・・・。
私は両手で顔を覆った。
どんな顔をしてあのフロアに戻ればいいというんだ?
ソジンと私の昔の些細な出来事を覚えている人間はまだ多い。
その上、アメリカ帰りのファン・ソジンは、一人身だということもあいまって
若い女性社員たちがひそかに盗み見ていることも私は気がついていた。
その視線の中で私を抱き上げたのだ、この男は。 ああ・・・どうしよう!

「ジェヨン」

返事なんかできるものか。

「ジェヨン、もし動けそうだったら、家まで送る」

「・・・大丈夫、一人で帰れるわ。ほっといて」

「やせ我慢しなくていい。
お前は昔からそうだ。
意地を張ってやせ我慢して、結局、いつも最後は倒れるんだ。 ・・・送っていくよ」

ほっといて。 お願いだから。
私はあなたになんか送ってもらいたくない。 お姫様だっこなんかして欲しくなかった。
・・・でも、結局、私はソジンに支えられ 会社のビルの前を走るメインストリートに立っていた。
ソジンが難なくタクシーを止め 私はそれに押し込められるように乗り込んだ。
彼に問われて、オフィステルの場所を告げる。
彼がそれをもう一度タクシーの運転手に告げ タクシーは夕方の渋滞の中、のろのろと走り出した。

私は後部座席のシートに深くもたれた。

まだ目の前がぼんやりしている。

かなり疲労がたまっているのは確かだった。

無意識にひとつため息をつくと

「大丈夫か?」と、問う声よりも先にふいにソジンに肩を引き寄せられあわてて私は体を離そうとした。

そのとき、タクシーの暗いバックミラーの中に、私は見てしまった。

歩道に立って、私たちが乗っているタクシーを見ているジョンファを。
私は振り返った。
すでにコートを脱ぎ捨て軽やかなスーツ姿のジョンファは 多くの人が行き交う街頭にあっても際立っていた。
その彼が、棒立ちの姿勢で、ただ私たちを見ている。
ソジンに肩を抱かれている私を・・・私を見ていた。
ソジンはオフィステルの前まで私を送ると 部屋まで送り届けたそうだったが、私が断った。
多分、私は愛想のない受け答えをしたと思う。
ぶっ倒れた私を医務室まで運んでくれた上にタクシーでわざわざ家まで送り届けてくれたのだ。
本来ならばちゃんとお礼を言って コーヒーの一杯くらいご馳走してもよかったのかもしれない。
しかし、私はすげなく彼を追っ払った。
一人にして欲しかった。
彼は、期待がはずれて残念という表情を隠そうともしないで肩をちょっとすくませ
私たちが乗ってきたタクシーにそのまま乗り込んで帰っていった。
私は暗い部屋に戻り、明かりをつけることもなくベッドに倒れこむ。
まだ春浅い夜の空気は、部屋の中に冬の冷たさを沈みこませていた。
その中で丸くなって、ただ目を閉じる。
その真っ暗なまぶたの裏に、私たちを見送っていたジョンファの姿がよみがえる。


ジョンファ。
ごめん、みっともないところを見せて。
走り出すとブレーキが利かないのは私のクセ。
・・・お願いだから、自分を責めないで・・・。

いきなり私の手の中で携帯電話がバイブ始めた。
ぎょっと起き上がってディスプレイを見ると薄暗い空気の中に青白くジョンファのナンバーが浮かび上がっていた。
あわてて携帯電話を開く。

「ジョンファssi?」

「・・・ジェヨンssi?」

「うん、私・・・」

「ごめん」

「ごめんって、何よ」

「ジェヨンssiに無理させた」

「違う、私が好きでやっていたの。 あなたが謝ることじゃない」

「でも・・・、僕は気がつかなかった。 ソジンssiに言われたとおりだ。
ジェヨンssiに甘えすぎた」

「馬鹿にしないでよね。 私だってね、ダテに10年以上も仕事やってるわけじゃないのよ。
貧血起こしたのは、自分で自分がセーブできなかった私の責任なの。
まぁ・・・それに、トシはとりたくないものだわ。 ・・・って、何言わせるのよ。
つまりね、私の責任。 わかる? ボウヤ?」

電話の向こうで、一瞬、彼が息を飲み そのあとでクスリと笑ったのが分かった。

「・・・ジェヨンssi」

「ん?」

「明かり・・・つけて」

「え?」

「あなたが薄暗い部屋で一人でいると思うと、つらい。
せめて、明かり、つけて」

「明かり・・・って・・・」

明かりですって?
私は思わずベッドの枕元にある窓を力いっぱい開くと オフィステルの下を見下ろした
(ちなみに私の部屋は5階にある)。

「ジョンファ・・・」

彼がいた。
そこに。
比較的新しいオフィステルが立ち並ぶこの界隈、その中にあって なぜだか一本だけ植えられている桜の木。
彼は、その下に立ち 携帯電話を耳に当てて私を見上げている。

「ジョンファ!」

「耳元でうるさいよ」

「何で、何で、そこにいるの?」

「・・・ジェヨンssiを送ってきたの、僕も。
せめてもの罪滅ぼし。 ・・・だから、早く明かりつけろよ」

「ジョンファ、ジョンファ、上がってきて。 その・・・、コーヒーぐらい淹れる」

「・・・ううん。もう一度、会社戻らなくちゃ。 それに・・・」

「何?」

「きっと・・・、今、あなたのそばにいったら あなたをめちゃくちゃにしてしまう。
だから、また今度」

彼が私を見上げている。

「ジョンファ」

「・・・ジェヨンssi。 やきもち妬いて、ごめん」

それだけを言うと 彼は私の目の前で携帯電話をぱたりと閉じた。

「ジョンファ!」

私の叫び声は彼に届いたはずなのに 彼はそのまま背を向けて行ってしまった。




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