結局、2週間、私は毎日残業する羽目に陥った。
ジョンファたちの練り直した企画は、 何とかオープニングに間に合いそうだった。
私は毎日、彼らのテーブルの上を片付け、電話番をし 新しい企画を次々とパソコンに打ち込み、コーヒーを入れ 時には彼らの食事の手配をしたり、etc.etc.。
マジに新入社員並みの「なんでもあり」の2週間を過ごした。
でも、彼らの仕事を見ていれば この2週間だけはそんな人間が必要だったのはよく理解できた。
彼らイベントプロデューサー(営業マンだけれどね)は 常にアクシデントと隣り合わせだ。
しかし、さすがに今回のアクシデントは、その範疇を越えていたようだ。
不測の事態に陥り、目の前に迫った期限までに完璧な企画を上げるために彼らは自分が今、なすべきことだけしか見ないようにしていた。
それがビジネスマンとして、クリエーターとして 非難されるべきか否かは、この際問わない。
問う時間さえなかったのだから。
ただ、彼らはクライアントに提示すべきものは完璧に仕上げた。
もちろん、まもなく現地に入り 実際に動かしてみないとそれが成功するか否かは分からないが少なくともクライアントが満足すべき企画内容だったことは間違いないようだった。
しかし・・・、その代わり、私の目の下の隈は隠しようがなくなっていた。

明日、最終的にクライアントとのチェックが入るという日、私は出社するとすぐに更衣室に直行した。
女性社員たちの更衣室ラッシュにはまだ時間があるため 静まりかえったロッカー室で、私は鏡を覗き込む。 そして、うんざりとして、ひとつ大きなため息をついた。
睡眠不足が何より痛かった。 毎日4時間くらいしか睡眠時間は確保できなかった。
お肌の曲がり角をはるか昔に曲がってしまっている私にとってしばらく忘れていたオーバーワークは確実にその証拠を残してしまう。

全く・・・。 昨夜から、胃の辺りももやもやしているし・・・
でも、このオーバーワークも今日で終わりだ。
明日からは、通常業務に戻れる。
ってことは・・・ しばらくジョンファは現地入りで会えなくなるということだが。
正直に言うと、私はこの2週間 神経がきりきりと痛みを訴えるのも忘れるほど幸せだった。
ジョンファはほかのメンバー同様、全く私を振り返ってはくれなかったけれど、私が夜、一区切りをつけてミーティングルームを出ようとすると 必ず「ありがとう」と言ってくれた。
あの、女性社員を震え上がらせている笑顔で・・・だ。
その瞬間だけは、私は彼を独り占めできた。
私は確実に彼の役に立っているのだと実感できた。
だから・・・明後日から、ジョンファが長期出張になることを ・・・とてもとても・・・。
そこまで思って首をぶんぶんと振る。
今日1日も気を抜いてはだめ。 まだ仕事は残っている。
更衣室を出てミーティングルームに入ると、今朝は珍しく誰もいない。
ただし、昨夜の名残でまたまたテーブルの上には書類が散乱している。
あの神経質なほどデスクの上を片付けるジョンファがこれを許しているというのはそれだけ切羽詰った状況であったということだ。
私はいつものようにその紙の束を整理し、壁に掲げられているボードでメンバーの午前中のスケジュールを確認した。
このプロジェクトも机上の作業はもう終了となりデザイナーやライターはすでに自分たちのフロアに戻っている。
営業マンだけがまだ走り回っているが、今日は誰も午前中はここには来ないことを確認すると、まずは自分のフロアに戻った。
何しろ通常業務も平行してやっているのだ。
私にも、ぼんやりしている時間はない。


「あら、せんぱぁい!おはようございますぅ〜」

かわ生意気(かわいい+生意気)なチェミンの甲高い声に、私は思わず頭を抱えた。
ま、それでも通常業務に戻れるのは嬉しくなくもない。
私は、午前中いっぱい、以前のペースで仕事を片付けていった。


「ジェヨン。一緒に飯食いに行かないか」

ランチタイムになり思わず伸びをした私に 恐れもなく馴れ馴れしく声をかけてきた男が一人。
いぶかしく思って顔を上げた私は、思わず声も上げた。
「ファン・ソジン!」 しかし、私は一声あげたものの、それ以上、言う言葉が見つからなかった。
だって、だって・・・ファン・ソジン。

「何驚いてるンだよ。
2週間前から、こっちにいるよ、俺は」

「うそ・・・」

「うそじゃないですよ。
本当にソジンssiは本社に戻ってきたんです。
先輩ずっとミーティングルームにこもりっきりだったから気がつかなかったんでしょう?
5年ぶりですってね〜、先輩と会うのもぉ」

横から嬉しげに言うチェミンを、私はにらんだ。
そんな私を、ソジンは相変わらず精悍な顔に穏やかな微笑を浮かべて見下ろしている。

「ジェヨン? 今、すごく忙しそうだな。
無理するなよ  お前は自分ではブレーキかけないから、見ているほうがはらはらする」
私はただ、そんなことを言う男の顔を見上げる。
今年34歳になるはずの彼は、程よく成熟した男の美しさを兼ね備えていた。
短く刈り込んだ髪の毛も健康的に浅黒い顔も いやみなほど彼の誠実さを表している。

「ソジンssi。・・・お久しぶり・・・」

間の抜けた言葉しか出てこないのは、まだ私が驚愕から抜け出せていないから。

「ああ。本当に。 だから、久しぶりにランチでも一緒にどうだ?」

彼はそんな私をあざ笑うことなく、穏やかに言葉を受けてくれた。
けれど、私はまだ彼の顔を見上げたまま首を振る。

「私・・・、私、お弁当を持ってきているの。だから」

「先輩!先輩のお弁当、私が食べてあげます! だから、行ってきたら?」

余計なことを言うな!チェミン! 私はまた彼女をにらむ。
しかし、無邪気な彼女は目に星まで浮かべて 私とソジンを交互に見ては、嬉しそうに笑っている。
とんでもない。
それでなくても買い物にさえ満足にいけない現在 お弁当のおかずは非常にわびしいのだ。
あんたなんかに食べさせて給湯室ででも言いふらされたら、目も当てられない。
それに、ソジンと一緒にランチだなんて!
どんなにおいしいメニューだって喉に詰まって 私は呼吸困難で死んでしまうかもしれない。

「ごめんなさい。ソジンssi 。 ほかの人誘って。
私はここでお弁当食べるから」

やっと落ち着いた声が出ることに安心して、私は彼にそういった。
彼は気を悪くした風もなく肩をちょっとすくめると 「OK」というとさっさと私のデスクを離れた。

「せんぱぁい、もったいなぁ〜い!!」

うるさい!チェミン! それでなくても気がつきなさい、周囲の冷たい視線に!
でも、・・・本当に驚いた。 ソジンが帰国していたとは!!
私はここ2週間のお祭り騒ぎのような喧騒を、いま実感を伴って知る。
そういえば、廊下に人事異動の紙が張ってあったような気が・・・。
でも、まさか、彼が帰国していたなんて。

ファン・ソジン。
5年前、アメリカ勤務になった男。
彼にアメリカへの転勤辞令が降りたとき、彼は私に言ったのだ。 「一緒に行って欲しい」と。
それは、交際を始めて3ヶ月目のことだった。
私・・・私は、決心がつかなかった。
27歳の私は、これが結婚の最後のチャンスだと思いながらも彼と一緒に海を渡る決心がつかなかったのだ。
何よりも、交際してたった3ヶ月。
常に彼の仕事振りを見ていた私は、彼は信用するに足る人間だと、将来性も抜群だと分かっていたにも拘らず、首を縦に振ることができなかった。
彼が渡米してしばらくは、「なんと馬鹿なオンナだろう」「お高くとまって」と ささやかれたことを私は知っている。
でも、私は臆病だった。
愛しているという確信がなかった私は、誰もいないアメリカで彼一人を信じて生きていく自信がなかったのだ。

その上・・・、私はあっさりと彼のことを忘れてしまった。
彼のいない寂しさに泣いたのは 一緒に渡米しなかった自分を責めたのは最初の一月だけ。
本音を言うと・・・、今の今までソジンのことなんかすっかり忘れていた。
あんなにいい男だったなんて・・・
いまさらだけれど、若さというのは (と、言っても当時の私もすでに27歳だったが)傲慢なものだ。
ソジンが去った後、私はしばらくぼおっとしていたのだろう。

「先輩! どうするんですか? ここで食べるの、食堂行くの?」

チェミンのいらだたしげな声に、私は我に返った。

結局しぶしぶと私は彼女のあとをついて食堂へと向かった
(もちろん、ランチボックスをぶら下げて・・・だ)。

15階にある社員食堂は、なかなかスタイリッシュなカフェスタイルをとっていた。
何よりも大きな窓からたっぷり光が入るし 同時にソウルの街並みがはるかに見渡せた。
それだけでも、この社員食堂に行く価値はある。
ところが、いかんせん、お味のほうがイマイチ。
安いだけがとりえのランチを食べるくらいなら 私のわびしいお弁当を食べるほうがましだ。
私は、そのまずいランチと格闘しているチェミンと向かい合わせに座ると ぼそぼそと食べ始めた。
残念ながら食欲もさほどない。
でも、午後から、またジョンファたちのサポートだと思うと 食べておかないわけにはいかなかった。

「もぉ〜、先輩ったらぁ〜 なんでソジンssiのお誘い断っちゃうんですかぁ?
なんなら私が代わりに行ってもよかったのにぃ」

はいはい、次からはそう口添えしてあげるわよ。
でも、あんたはジョンファのファンだったんじゃないのか?
その上、彼のファンはどこにでもいる。
ぶつぶつと文句を言う彼女にいい加減に相槌を打ちつつ、実は私の神経は私の背後に座っている女性社員たちの会話に向けられていた。

「そうよ、でね、ジョンファssi ったらね
最初は東洋史学部だったらしいけれど 途中で経営学部に転部したって言ってたわよ」

「わぁ、なんで?」

「さぁ・・・そこまで聞いてない。
 今度ランチのときに聞いておく」

「あら、今度は私が誘うわよ」

「そのとき、私も一緒に行くわ、ちゃんと声かけてね」

「分かったわよ」


「ぜぇったいよ〜 」

営業部の女性社員じゃないことは声からでも分かる。
営業部は1〜5課まであるが、自慢じゃないが私は事務の女の子たちは、名前は知らなくても顔は全部知っている。
ジョンファのヤツ、営業部の女性社員だけでは足らずほかの部の女の子にまで色目使ってるのか
(あの男が使うはずないか。女性社員が放っておかないだけだ)。

「ジョンファssiの噂ですね。 彼、今、ひっぱりだこなんですよ。
ずうずうしくも他の課の人間までしゃしゃり出てきてぇ〜。
もう、皆、彼と一緒のランチのときは 食べること忘れて彼に根掘り葉掘り・・・。
ほかの男性社員も同席しているのに、カレにばっかりぃ〜」

私の様子に気がついたチェミンが、声を潜めて言う。

「チェミン? あなたもご同病かしら?」

ペロンと舌を出し、彼女は嬉しそうにうなずいた。
そして、いちいち指を折りながら教えてくれる。

「今はジョンファssi忙しくてだめだけれど
1ヶ月前くらいに 一緒に行けたんですよぉ。
でね、教えてもらったんです。
出身大学でしょ、好きな食べ物でしょ、嫌いな食べ物でしょ、それからぁ・・・」

あんたたちは、お見合い斡旋のオバサンか。

・・・そういえば・・・ 私は彼の出身大学さえ知らない。
私たちが話すことといえば、家族のことや 好きな本や映画や音楽の感想や・・・。
何よりも、彼が好んで話したのはお兄さんのことであり
聞きたがったのは私のことや私の家族の話だった。
あとは、他愛ないおしゃべり。 一体、私たちって・・・。

私はさっさと食べ終わるとチェミンに 「お先に。ミーティングルームにいるから」と告げると社員食堂を後にした。




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