「ジェヨンssi!」



またか・・・と、私はその声にうんざりとする。
ジョンファがそんな風に私の名前を呼びながらフロアに入ってくるのは必ず面倒な仕事を押し付けるためだった。
現に、私の周囲の人間たちも、彼のその声が聞こえるとくすくす笑い出す。
私と彼のやり取りを想像しておかしくなるのだろう。

「ジェヨンssi」

「・・・うるさい(聞こえないようにつぶやく)」

「この書類、明日までに頼む」

「またぁ?どうしてそう面倒な仕事ばかり押し付けるのよ!
うちにはね、私以外にも事務担当の社員はいるのよ!」

「そんなこと、見れば分かる。
でも、これはあなたにしかできない。
残業には付き合うから!」

「残業代、高いわよ!」

「ランチくらい奢る!!」

しかし、みんなは知っている。
彼は一度でも、私にランチを奢ってくれたことはない。
だって、私は毎日お弁当を持ってきているんだもの。
私は毎日、ランチタイムになると、後輩たちが社員食堂に行くのに付き合ってお弁当を持ち込むか、自分のデスクで食べる。
彼らはジョンファと私の“散歩”を知らないから私たちのやり取りをただの掛け合い漫才だと思っている。
私はそれでいい。


「ねぇ、先輩」

「何?」

「最近、ジョンファssi、変わりましたよね?」

「そぉ?」

隣のデスクのチェミンが、くりくりした目を輝かせてそっとささやく。

「あのね、以前は、女性社員の誰がランチに誘っても
あっさりと断っていたのに、最近、一緒に行ってくれるんですよ。
あ、でもね、2人っきりはだめなんです。
いつもね、必ずジョンファssiったら、誰かを誘っちゃうの。
 でもね、一緒にランチしてくれるんですよ?」

あらそ。
元義姉をあきらめざるを得なくなってとうとう社内恋愛禁止というルールを無視することにしたのか?
私は、そんな自虐的な思いにとらわれる。
そう、とっても自虐的。
だって、私は・・・、彼の何だろう?

クリスマスから3ヶ月。
私の中にはまだ彼がいる。
でも・・・、彼はあれ以来、ただ、街を歩くだけのために私を誘う。
2人で季節が移ろってゆく街をただ歩く。
とりとめもなく言葉を交わしながら・・・。

私?

私は・・・。


「ジェヨンssi!」

自分だけの想いに沈み込みそうだった私の頭の上からまた彼の声が降ってくる。
見上げると、私の前にあのきれいな顔がなにやら切羽詰ったような表情をして立っていた。

「何ですか?」

「僕があなたを呼んだら、仕事に決まっている」

こいつ、ほんとうに!!!
二重人格男!

「また、急ぎの仕事?」

思いっきり皮肉に聞こえるように言ってやる。
ただし、彼はびくともしないけれどね。

「明日から、いや、今日からでもいい、僕のチームに来て欲しい」

「はい?」

「クライアントから急な企画変更が入って、時間が足りない。
2週間だけでいい。
明日から2週間だけ、事務処理手伝って欲しい。
もう、部長と課長の許可とってあるから、よろしく!」

「ちょっと、待ってよ。
そんなこと急に言われても」

「急な話だから、あなたにしか頼めないんじゃないか。
通常業務との兼ね合いが大変だと思うけれど、頼む!」

頼む!と言いながら、ジョンファは頭を下げない。
完全な命令形。
エリート社員の典型的タイプ。

全く・・・。
にらむように課長デスクを振り返ると、狸親父はそ知らぬふりをする。
どいつもこいつも女性社員を何だと思っている。
私たちは、男たちの都合で振り回される雑用係じゃない!
そうぼやきながらも、結局私は、今、ジョンファたちのチームが陣取っている
第1ミーティングルームに出向いていった。
今、彼らが取り組んでいるプロジェクトのクライアントは国内に多くのホテルを持つグループ企業。
今年1年かけて、チェジュや竜平スキー場など、国内のリゾート地といわれている5つのエリアにホテルをオープンしていくのだがそのオープニングイベントすべてを連動させるというものだった。
最初にチェジュで始まり、2ヶ月ごとに新しいホテルを次々とオープン。
すべてのイベントが終了するのは、竜平スキー場のホテルが
12月のシーズン真っ最中にオープンしてから、1ヵ月後という大掛かりなイベントだった。
そのイベントを一括して請け負ったのだ。

「カリン・エンターティメントのシン・ジェジンに競り勝った企画だぞ!」と
“街角散歩”のときに彼が自慢げに語った企画だった。
2週間に1回しかその散歩ができなかったのは彼がそれ以外の週末は、国内のリゾートを飛び回っていたからだ。
しかし、後2週間でその第1回目のオープニングイベントのためにチェジュに現地入りするというこのときになってクライアントからの企画変更が入ったのだという。

「イベント会場の建設だってもう最終工程に入っているというのに
急にもっと派手にしろって言い出した。
最初のコンセプトは、シンプルで
けれどホテルの風格と気品を出したイベント・・・だったのに」

2人でミーティングルームへと歩く廊下で、ジョンファはつぶやくように言う。
しかし、仲間が待つ部屋に足を踏み入れたとたん彼はひとことも愚痴は漏らさなかった。

会議テーブルの上はこのチームの混乱振りと狼狽振りを見事に現してした。
あらゆる書類が散乱し、ボツになった企画書が大きなダストボックスに幾冊も放り込まれていた。

「すまない、ジェヨンssi。
まずこのテーブルの上、片付けてくれる?
すべていらない。
その後で、詳しい流れを説明する」

営業マンをはじめデザイナーなどのクリエーターたちは私に簡単に挨拶すると、すぐに自分たちの仕事に戻る。
8台並ぶパソコンはヒートアップしている彼らを象徴するようにめまぐるしく画面が変わっていった。
私はジョンファの指示に従い、テーブルの上の書類を整理した。
すべていらないというが、何がどこで必要になるか分からない。
すばやくタイトルだけ確認すると、項目や関連ごとに分類してひとまずファイルにまとめて、ダンボールの中に入れていった。
彼らはそんな私の動きを意識することなく目の前の難題に取り組んでいる。
ジョンファも受話器を置く暇も惜しんで
「あ、その作業中止して。10分後に新しいヤツ、FAXするから。
 メール? 簡潔によろしく。後で確認する」だの

「オーダー確認、もう一度頼む。ここで躓くと取り返しがつかなくなる!」だの

「今は愚痴をいう暇があれば、次の段取りを考えてくれるかな?
ああ、その言葉を待っていたんだ」など

私と2人っきりの時には想像もつかない冷静な言葉で次々と指示を出していた。
私は、黙って目の前の書類の山を片付けると、部屋の中にいるメンバーにコーヒーを運んだ。
ジョンファは受話器を耳に挟んだまま片手で「ありがとう」と合図すると電話の向こうと丁々発止のやり取りを交わしている。
その一方で、新しい企画書を私の前に差し出した。
私はそれを受け取ると、ぱらぱらとめくってみた。
ただし、タイトルにはまだ(仮)の文字が入っている。
この新しい企画がうまく実現できるかどうか、そのために現在彼らは寝る間も惜しむしかないわけか・・・。
仕方ない。
私は徹底的に彼らをフォローしなくちゃ。
そのくらいのことなら誰に指示されなくても私にはできる。
あわただしく出入りする営業マンたちの邪魔にならないように右に左に、自分の座る位置を変えながら私は午後いっぱいその部屋で過ごした。




夜、ミーティングルームの中が少しだけ落ち着くと私は自分のフロアに戻った。
案の定、私のデスクの上にはいつも私が処理していた仕事が残っていた。
チェミンのかわいい丸文字メモがその上にちょこんと乗っかっている。

「先輩。お疲れ様です。
半分は何とか処理しましたが、ちょっと残っちゃいました。
すみません、私たちじゃ判断できないものもあって。
よろしくお願いします(ぺこり)」

はいはい、わかりました。
半分でも片付けてくれたら、それだけでもありがたいわよ。
私はがらんとしたフロアを見回す。
そういえば、最近、残業することも少なくなっていた。
ジョンファと散歩をする前はいつもこうやって誰も残っていないフロアで一人残業に精を出していた。
そこへいつもジョンファが駆け込んできては自分のデスクの上をすばやく整理して、その挙句に言うのだ。
「ジェヨンssiって、仕事好きだね」と。


「ジェヨンssi、あなた本当に仕事が好きだね」

そうそう、ほっといて・・・って、え?
ぎょっと顔を上げると、今、思い浮かべていた顔が私をのぞきこんでいた。

「な・・・、びっくりするじゃない!」

「っていうか、あなたさっきからぼんやりと
パソコンのモニターにらんでいたから・・・。
僕がここに入ってきたことさえ気がつかなかったじゃない」

確かに・・・。

「もう、帰ったほうがいい」

「帰れないわよ、仕事これだけ残っているんだもの!」

「ああ・・・、ごめん。僕のほうで時間とらせたから・・・」

謝るくらいなら手伝え!・・・というわけにはいかないわよね。
彼は彼でどっさりと仕事を持っている。
多分、今夜も会社にお泊りだろう。
そういえば、彼は毛布を小脇に抱えている。

「会社に泊まるの?」

「うん、今日中に全部見直しておかないと、明日からの段取りが組めないから・・・」

「大変ね」

「だから、あなたにヘルプ頼んだんだ。
・・・無理言うけれど、よろしく」

「うん」

私は、優しくうなずいた。
会社の中でも、2人きりになると彼の口調は少し砕ける。
そんな彼のためなら、私は無理だって厭わない。
そのくらいしかできることないんだもの。
・・・しかし、結局、通常業務をすべて終えたとき私の時計は10時を過ぎていた。

帰り際、そっとミーティングルームを覗き込むと、5人の男たちがカッターシャツの袖を捲り上げ、それぞれにパソコンに向かっていた。
そして、時々、なにやら激しく言い合っている。
私は彼らの邪魔をしないようにその場を離れた。


自宅に戻り、しかし、私も簡単には眠れない。
持ち帰ってきた資料を読んで今までの流れを把握しておかないと明日からスムーズにフォローもできやしないもの。
結局、眠ったのは午前3時。
そして、私はいつもより1時間早く出社した。
ミーティングルームでは、ジョンファをはじめ3人の男どもがごろごろと寝転がっていた。
彼らを起こさないように、私は彼らが仕事にすぐ取り掛かれるように会議テーブルの上をまず片付ける。
そして、昨夜読んだ仮企画書の気になる部分を書き出したメモと、そのページに付箋をつけた企画書とともにテーブルの上に置く。
ベンディングコーナーで人数分のコーヒーを紙コップに入れて持っていくとのっそりと男たちが起き出す。

3人の寝起きの顔は・・・
あまりほめられたものではないが、やはりそれでもジョンファが一番かわいい。
私は彼らの前にコーヒーカップを差し出すと、ジョンファに今日の段取りを聞き、まずは自分のフロアに戻った。




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