翌朝、私はほとんど眠れなかった目をこすりつつ、ICUへと入っていった。

傍らに立った私に気がついて見上げたのは、

もちろん、やはり同じようにまっかっかな目をしたジョンファの母親だ。

彼女は黙って体を引くと、私をベッドのそばに誘ってくれた。


「ジェヨンssi」


私が彼の名前を呼ぶよりも早く、ジョンファが私を呼ぶ。

私の背後で母親がかすかに息を吐き、ICUを出て行ったのが気配でわかった。


「おはよう。よく眠れた?」


「うん。僕はね。

あなたは眠れなかったようだけれど?」


「・・・」


昨夜はまだ麻酔の影響でぼんやりとしていたけれど、

今朝の彼はいつもの表情を取り戻していた。

もっとも傷だらけの顔は腫れ上がり、まだ痛々しかったが。


「ねぇ、心配した?」


「・・・」


「心配した?」


「ジョンファ」


「泣かないでよ。ちゃんと生きてるじゃない」


「だって、安心したんだもん」


鎖骨を骨折していないほうの腕が伸びてきて、私の頬に触れる。

私はその手を両手で抱きしめた。


「僕がいなかったら、生きていけないって誰かさんが言ったから、

 ちゃんと生きているでしょう。

 あなたが泣くと怒られているみたいで、傷が痛む」


「・・・もっと痛んだらいいんだわ」


泣きながら憎まれ口をたたく私を、ジョンファは黙ってみつめている。


「ジェヨンssi」


「何よっ」


「・・・せっかく言おうと思ったのに、

 あなたが遮るから、また言えなかった。

 もう少し待っててくれる?」


私は後ろめたさを隠してうなずいた。

まさか、もう聞いちゃったなんて、口が裂けても言えやしない。

それに・・・、自分の両親の前で私に告げたなんて知ったら、

いくらジョンファでも、というより、

ジョンファだからこそ恥ずかしさのあまり言葉を失うだろうな

(ちょっとその表情を見てみたかったりして・・・)。


「ジョンファ、忘れないでね、薔薇の花」


「うん。女の子はロマンティックなんでしょう?」


私は深くうなずいた。

もっともね、薔薇の花が私より似合うのは、(傷の治った)あなたなんだけれどネ。

私は体を起こすと、彼の唇に顔を寄せた。

いくら両隣のベッドとは隔てられているとはいえ、

壁の上半分は透明な強化ガラスだから、周囲から丸見えだ。

でもかまうものか。

ICUにいる患者とその家族は、皆自分たちのことで精一杯だ。

にんまりと微笑んだ彼の唇は、乾いてかさかさだったけれど、でも私はやっと安心できた。

ジョンファの怪我は、いうまでもなく大騒動になった。

会社では全治2ヶ月という彼の代理を立てることにおおわらわになったし、

足場を落とした工事会社と現場監督は、会社とホテルから訴えられそうになったし、

私は私で、毎日病院とラボックを行ったり来たりしていた。

その間も仕事は遅滞できず、ジョンファは事故後4日目、

ICUから一般病棟に移った2日目からパソコンが持ち込まれ、

同僚や後輩たちと善後策を協議した。

病室がそのままミーティングルームになったような有様に、

一番最初にジョンファの母親が怒りを爆発させた。

なにしろ、自分から希望して1日中付き添っているのは彼女だった。

ジョンファはまだ痛みが引かず、

時に唇をかみ締めて痛みに耐えているにもかかわらず、

会社の人間がやってくると、すぐに病室から追い出される。

挙句、ジョンファから、

「母さん、僕のことは心配いらないから家に帰って、ゆっくりしてきてよ。

 母さんの顔を見ていると、こっちが疲れる」


とすげなく言われて、本当に1週間目のお昼前、さっさと帰ってしまったらしい。

もっとも、同じ日、私が病院に到着した夕方には病院に戻ってきていたが。


「あの子には本当に呆れるわ」


待合室で私の到着を待っていた彼女は、私の顔を見るなりそうぼやいた。

けれど、その顔に疲労の色が濃いのは隠せない。

毎日、朝から私が仕事を終えて帰ってくる夕方までジョンファのそばにいるのだ。

まだ自由には寝返りも打てない彼の看護は、疲れもするだろう。


「彼は、お母さんが疲れていらっしゃるのを見かねて、わざとそう言ったんです」


あなたの息子だもの、素直に言うはずがない・・・と

付け足さないだけの分別はある、私にも。

私のいたわりの言葉に、彼女は、ちょっとだけ肩をすくめる。

そんなこと、あなたに言われなくても知っている・・・と言いたげだった。

正直なお話、ジョンファの母親との神経戦は息子以上に疲れそうだ。

けれど、彼女は賢い女性なのだろう。

必要以上に私を刺激しようとはしない。


「ジェヨンssi」


「はい」


「・・・本当に、もう、あの子は小さいときから手のかかる子だったの。

 あなたも手を焼くでしょう」


「・・・いままでも、散々、手を焼かされました」


私のまじめを装った返事に、母親は一瞬、きょとんとしたが、にやりと笑った。

いたずらっこジョンファがよくする表情だった。


「じゃぁ、私は帰るわ」


あっさりとソファから腰を上げ、彼女は私を鋭い視線で一瞥した。


「ジェヨンssi」


「はい」


「あの子を、本当によろしくお願いします」


「はい。

 私のほうこそ、どうぞよろしくお願いいたします」


私の言葉に軽くうなずいたあと

夜間診療で賑わう待合ロビーを真っ直ぐに歩いてゆく彼女の背中に、

私は深々と頭を下げた。

ジョンファの両親それぞれから「よろしくお願いします」と告げられた重さを、

私はあらためて噛み締めた。

嫁となる私に対して横柄に構えるのではなく、彼の両親のほうから歩み寄ってくれる。

かわいい二男であることは確かだが、それ以上に大切な息子なのだ。

私は彼女の背中が見えなくなると、彼への病室へときびすを返した。


「ジェヨンssi。遅い!」


ドアを開くなり、彼が拗ねたように言う。

思わず頬が緩みそうになり、私はドアを閉めるふりをしてごまかした。


「母さん、怒って帰っちゃったから、不便でしようがない」


わがままなやつめ。

帰しちゃったのはあなたじゃない。

手術から1週間が過ぎ、あとは回復を待つだけだと診断されたとはいえ、

完治までは時間がかかりそうだった。

彼の顔の傷だってまだ癒えてはいない。

わたしは彼の傍らに座ると、

しみじみとその傷だらけの(だけどとてもきれいな)顔を見つめた。


「何?」


少しだけ彼が眉を寄せる。


「あなたが生きていてよかった」


「なんだよ、それ」


「言葉そのままよ」


「ジェヨンssi」


「なぁに?」


「キスしてあげようか?」


私は微笑んだ。

キスしてあげようかとジョンファは言うが、彼はまだひとりでは体を起こせない。

毛布の上にひじをついてあごを載せると、私は彼の顔をまたみつめる。


「ジョンファ」


「なんだよ」


「キスして欲しい?」


「・・・あなたがキスして欲しいんでしょ」


「私は別に。

 あなたが望むなら、してあげてもいいわよ」


ちょっとやせ我慢だが、ジョンファをおちょくるのもまんざら悪くはない。

いつもおちょくられるのは私だし。

何よりも、やっとそういう心の余裕もできたのだという喜びも沸いてくる。

何しろ、ここ数日、彼は仕事の善後策協議で夕方にはぐったりと疲れていたのだ。

青ざめた顔で枕に頭を乗せ物憂げに目を閉じていた彼は、

それはそれはそそられたが(不謹慎だけれど)、

痛々しくてからかう余裕なんてなかった。

それに、お母さんだってそばにいたし・・・。

でも1週間たって、やっと彼の周りは落ち着いてきた。

何とか仕事のほうも目途がついたということだし、

これからはゆっくりと療養生活に入れそうだった。

私は彼の唇に自分の唇を寄せた。

今まではそっと触れるだけで私は体を離していたが、

今回はすかさず彼の片腕が私の体をとらえる。

ジョンファの懐かしい匂いに、私はほとんど陶酔に近いような眩暈を覚えた。











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