ああ・・・私、どこへ行こう?

気がついたとき、私はひとりで街をさまよっていた。
ジョンファと歩き回った街角を、私は一人でふらふらと歩く。

ねぇ、ジョンファ、このお店の前で、あなたはなんて言ったっけ?
ねぇ、ジョンファ、あなたはここで雪に足を滑らせた私を支えてくれたわ。
ねぇ、ジョンファ、ここで、私たち不味いランチを食べちゃったわ。
ねぇ、ジョンファ、この小さな本屋さん、あなたは好きよね、店主の好みが偏っているから。
・・・あなたって、本当にひねくれもの。
ねぇ、ジョンファ、 ねぇ、ジョンファ、 ねぇ、ジョンファ・・・。



フラワーショップの店先を見るまでもなく、街角には花が溢れていた。
ジョンファと一緒にめまぐるしく過ごした2週間、私は花を省みる時間なんかなかった。
彼がこの街にいなかった3週間、私は花が咲いていることにさえ気がつかなかった。
その一月の間に、街には華やかな装いが似合う季節が訪れていた。
人々が行き交う頭上には、ハナミズキの薄紅色や白い花が咲き
歩道のコンクリートの割れ目からは、たくましいタンポポが覗いている。
街のいたるところにあるささやかな花壇には菫やすずらんや都忘れやカランコエの花が咲き乱れているし 沈丁花の甘い香りもどこからか私を誘っている。

私たちが歩き回っていた冬の街は、すっかり化粧直しを終えていた。
街行く人は、皆春の訪れを楽しんでいるようだった。
コートはすでに必要なく、身軽になった体はそのまま踊り出しそうだった。

私だって、毎年春を待っていた。
冬の花は凛として潔いけれど、どこか寂しげだった。
部屋に飾るときも、一輪挿しが似合うような花が多かった。
春になって、彩り鮮やかな花がいっぺんに咲き誇るとき、私は好んでたくさんの種類の花を買い求め、大振りな花瓶に飾るのが好きだった。
でも、今年はまだ一度も春の花を飾っていなかった。
私は知っていた。
私は春が来るのが怖かった。
私の心だけがまだ、あの雪降る夜にしがみついていたいと、あのクリスマスの夜に戻りたいと街をさまよっている。
あの夜のジョンファの哀しみさえ、もう一度彼を包み込んでくれたらいいと、わがままなことまで考えてしまう。
そうすれば、また彼は私を求めてくれるかもしれない。
それが、どれほど愚かな考えなのか分かっていても、私は願わずにいられなかった。

でも、今、咲き誇る花たちの香りがバカな私を包み込む。
そのうえ、「ら・びあん」まで定休日。
赤いファサードの前で途方にくれて、 私は迷子のように店の前に立ちすくむ。
もう・・・私が行くところはどこにもない。





なんとか自分のオフィステルの前まで戻ってきて
私は薄闇の中で、以前、彼がたたずんでいた桜の木の下に立っていた。
私が貧血を起こした日 携帯電話を耳に当てたまま彼がひっそりと隠れていた桜の木の下。
あの日、まだ固く固く結ばれていた花のつぼみは、今は満開。
ほのかにおぼろげに光を集めて、私の頭の上でかすかに揺れている。
薄紅色の花群れは、私の悲しみなんかにかまってはくれない。
今宵が盛りと凛と咲き誇り、短い命を輝かせている。
ふわりと夜の風が枝を揺らすと、はらはらと幾枚かの花びらが舞った。
泣けない私の代わりに泣いてくれるの?

ああ・・・ばかだなぁ・・・、私。

もう一度、もう一度でいいから、ジョンファに抱きしめられたかったな。
その思い出だけで、しばらく生きていけたのに・・・。
ああ・・・ばかだなぁ・・・。

決心したのに、私は私で、生きていくと、生きていけると決心したのに。


部屋に戻ると、私はその場にくず折れた。
もう立ってなどいられない。

心が痛い。

体が痛い。

心が引き裂かれそうになると、本当に体までが痛いのだと初めて知る。
ソジンと別れたときも、八ヶ月前、手ひどく裏切られたときも こんなに体は痛まなかった。
心だけが涙を流して、たとえ足元はふらついても それでも私は立っていられた。
でも、今はできない。
体中がジョンファの名を呼んでいる。
立ち上がることも、ううん、体を起こすことさえできない。
自分で自分の体を抱きしめて、ただ丸まっていないと 心も体もばらばらになってしまいそうだ。

「ジョンファ」

その名前しか、今は分からない。
それ以外のことなんか、今の私に必要ない。
その名を呼び続けることだけが、今、私が生きている証。
なぜこんなにつらいのか、それさえ分からない。
ただ、「ジョンファ」 その名前だけが、彼だけがすべて。






・・・誰かが、ドアをノックしている。
けれど、何も聞こえない。
聞きたくない。


「ジェヨン、ジェヨンssi?」

誰?

「いるんでしょ、開けて」

その声に、私の体はゆっくりと起き上がる。
すでに自分の意思じゃない。
その声が、私の体を支え、涙でぐちゃぐちゃになった顔をそのドアに向ける。

誰?

鍵をかけることさえ忘れていたドアのノブが回って、勢いよくドアが開いた。
そこに立っている男の姿を見て、・・・私はマジに気を失った。



自分の泣いている声に引っ張られて、私は意識を取り戻した。
私は泣いていた。
ただ、子供のように号泣していた。
彼の、ジョンファの腕の中で。
ジョンファは私を抱きしめて
やっぱり泣きじゃくる子供をあやすように片手で私の背中をなぜている。

「もう、泣き止んでよ。
僕がいじめたみたいじゃないか。
意地を張っていたのはあなただからね、言っておくけれど」

泣きやめられるものならとっくにそうしている。
でも、涙は止まらない。

「ジェヨンssi。
あんまり泣くと顔が腫れて、みっともないよ」

いまさら、みっともなくなろうとなんだろうとかまわない。
だって、涙は止まらない。
体の奥からこみ上げてくる嗚咽も止まらない。

「ジェヨンssi。
ねぇ・・・、もう泣くなよ。 僕が、困る・・・」

私は、しゃくりあげながら尋ねる。

「・・・何で困るのよ」

「・・・あなたに、キスできない」

私は恨みがましい目で彼を見上げたんだと思う。
ぎょっとした顔をして、ジョンファは私を見下ろした。

「もう一度、言うよ。
意地を張ったのはあなただ。
僕じゃない」

「意地を張ったんじゃないもの」

「じゃぁ、なんだよ。
勝手にうわさ信じて、勝手に怒って、勝手に僕の気持ちを考えて、 勝手に・・・。
あ〜、その上、あのソジンまで。
どこまで僕をおちょくったら気がすむ?」

ジョンファは私を抱く腕に力を入れながら、それでも真剣に悔しがっている。

「だって・・・」

「だって何だよ。
ああ、あなたのことだから、言い訳の言葉100も200も考え付きそうだな」

こんなシチュエーションで、なんという憎たらしいことを。
でも、私は、もう彼に逆らうことはあきらめた。
素直になるしかない。

「・・・あなたの邪魔、したくなかったんだもの」

「それがね、意地を張っているって言うの。
でも・・・ごめん。 あなたの気持ち、考えてなかった。
僕より年上で、僕よりベテランで・・・」

「皮肉言いに来たの?」

「うん。たっぷり言ってやろうと思って来たの」

「ジョンファ!」

「・・・僕のこと見くびってる、ジェヨンssiは。
それがすごく腹が立つ」

「・・・でも、縁談はホントでしょ」

「最初から、断ってたの、僕は。
両親だって、分かってくれるよ。
今、両親は寂しさのあまり、目の前の優しさにすがろうとしているだけなんだ。
この仕事が一段落したら、親父とちゃんと話そうと思っていた。
あなただって、僕が実家に帰る時間だってなかったこと、知ってたでしょ。
それなのに、本当にもう、あなたは・・・」

「だって、ジョンファだって黙っていたじゃない、ちゃんと話してくれたら、私だって・・・」

「まだけんかしたい?」

「・・・したくない」

「ん・・・」

彼は私を抱きしめる。
私は安心しきって、彼にすべてを預ける。
気持ちいい・・・。

ん?でも、なぜ彼はここにいるの?

「ジョンファ・・・、何でこんなとこいるのよ」

「ずっとね、街を歩いていたんだ、あなたと一緒に歩いた街を。
僕は・・・、あなたと一緒に街を歩くの好きだったけれど
あなたは物足りなかったんだなぁッて反省しながら。
そのとき、あなたの声が聞こえたような気がして・・・。
ここへ来てみたら、本当にあなたが僕の名前を呼んでいた」

え?

「・・・私・・・、あなたの名前、呼んでた?」

「うん、泣きながら大きな声で、ジョンファ、ジョンファって。
外まで聞こえていた。
誰も廊下にいなかったからいいけれど、僕は恥ずかしかったね。
で、慌ててドアを開いたら、あなた、僕の顔見てアクマと遭遇した天使みたいなすごい形相して意識を失った。
僕はマジに帰ろうかと思った」

「ウソ!!」

私は恥ずかしさのあまり、彼の体を両手で押し返そうとした。
でも、ジョンファはそれを許さない。
さらに私を抱く腕に力を込めると

「うん、ウソ。
あなたは僕の顔を見て、僕に手を差し出して、そのまま意識を失った。
ねぇ、ジョヨンssi。
お姫様だっこの機会を与えてくれてありがとう」  と、言うなり、ひょいと私を抱え上げる。

「ジョンファ!」

「抗議は受け付けない。
意地っ張りも許さない。
さっきみたいに、ジョンファ、ジョンファって僕の名前を連呼するのは許す。
ただし、もっと色っぽくね」


そのまま彼は私をベッドに横たえると
くちづけしながら私が着ていたブラウスも、スカートも下着も剥ぎ取った。
もちろん、自分もさっさと脱いでしまう。
あとはただ、本当に、私は彼の名前を呼び続けた。
最初は彼の名前だった「ジョンファ」という言葉は、最後は愛の言葉になった。
私は、彼を自分の中に感じながら 愛しているという言葉の代わりに彼の名前を呼んだ。

「ジョンファ」という言葉が悦びだった。

私はまた泣き続け、彼は私の中にいた。





真夜中すぎ、彼が長い腕を伸ばして枕もとの窓をそっと開けると
春の滑らかな風が入ってきた。

「花の香りがする」

彼の腕の中で目を閉じて、私はひとつため息をつく。

「・・・ん・・・、中庭が花壇なの。
今は、いろんな花が咲いているわ」

「どんな花?」

「チューリップ、ビオラ、ああ・・・きっと、牡丹の花も咲いているわ。
連翹に桜草・・・」

「うわ・・・そんなに咲いているのを想像すると、なんだか怖いな。
誰がそんなに植えるの?」

「ここの大家さんの趣味みたい。
1年中、花が咲いているのよ。
そうだわ・・・、ここに来るときに気がつかなかった? 
この間、あなたが下に立っていた木は桜よ。
今は満開・・・」


そう私がつぶやいたとき、風に乗って花びらが一枚、私の肩にはらりと落ちた。
ジョンファが長い指で、その花びらをそっとつまむ。

「うわさをすれば・・・だ。
僕の肩の上に舞い落ちたのは枯葉だったのに
あなたの肩の上には桜の花びらが散った」

ちょっと不満そうに言う彼を、私は見上げる。
彼は私の視線に気づく。

「ねぇ、ジェヨンssi。
そんなに幸せそうな顔、しないでよ。
また襲いたくなる」

その花びらを私の唇に乗せ、彼はまたくちづける。
桜のあえかな香りが口いっぱいに広がった。
私はまた夢心地になる。
二度と、離れない。 私は、彼のものだ。

ジョンファ、あなただけを愛している。


・・・明日は、おいしいトマト料理作ってあげる・・・ね。




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